●[攝心最終日(2016/7/31)の食事が終わるのを待って、一緒に食事をされていた哲玄老師が言われました]
みなさん、もう少し手元に気を配ると食器の音はしないものなんです。
30人くらい人がいてもカタリとも音を立てずに食事ができます。
飯台を拭くときも、拭く場所を見ながら台拭きを動かすから全部ちゃんと拭けるのです。 食器を送る時もそうです。食器をちゃんと見ながら送れば、音は立たないんです。
みなさんのを見てると、ガチャガチャ、ガチャガチャ、しています。
坐禅が、修行がいい加減だということです。
攝心中ですらそうなんですから、日常生活だっていい加減だということです。
[ 「いい加減」ということは、普段老師が説かれていることを少しも実践していないという意味です
別に老師が参加者に厳しいことを言われているわけではありません 参加者に自分の修行がどうなのかを気づいてもらうためのコメントです
以前は井上哲玄老師は、坐禅と坐禅の間の抽解の時、控え室に行って、「修行はおしゃべりではないんだ」と注意されていましたが、その時だけで、効き目が全然ないのでもうそういう注意はやめられました
攝心にただ参加してスケジュール通りに坐禅しているだけでは修行になっていませんよと言われているのです ]
● 皆さんは、すぐに群れを作りたがりますね。
修行はひとりなんですよ。 [2015年臘八攝心の提唱にて、井上哲秀老師の言葉]
●まず、修行方法を理の上でしっかり理解する必要があります。
それには頭での理解が必要なんだけれども、あとは実践して、自分の身体で確かめるのです。
すでに出来ているんですよ、そのことを自分で確認をする。
坐禅している時だけが、修行ではありません。
● 進歩しない人ってのは、言われた通りのことをやっていないんだね。
坐禅会や摂心に来ても、麻薬を打ちに来ているみたいなもので、
話を聞いて気持ちよくなって帰って、
麻薬が切れそうになったら、またやって来る。
そして気持ちよくなって帰るだけ。
全然実践してないんだね。
● 坐禅というのは、作り事を一切しないということです。
何か作り事をしていると言うのは、考え方の中に没頭しているんです。
●「事実」って言われても、みなさんの思っている事実は、認識で捉えた事実なんですよ。それだけズレがある。
「事実」は、人間の考え方なんか到底及ばない世界の話ですよ。
● 機能が機能のままで手付かずになっていることが本当にそうだなと頷けるまでは、
きちんとした指導者が必要です。
● 修行方法の話をすると、
「それでは社会ではどうするんですか?」という人がいます。
社会とかより、まず、基本をやってみてください。
何でも応用の前に、基本があるでしょう。
五官の機能のままにして坐禅してみてください。
どうなりますか?
● これからずっとそうするっと考えると気が遠くなります。
今日一日やってみる と決めてスタートしてみてください。
●この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、
みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
頭で分かったふうになっても進歩はありません。
坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。
2015/7/7
● 仏法は体験者から体験者によって伝わっているんです。
● 本当の仏法に出会うことは、こういう喩えがいいかどうか知りませんが、宝くじに当たるよりマレなことなんです。 それくらいの確率なんです。
● 仏教のお経(経典)は、自分自身の説明書です。
● すでに誰でもなれているということを自覚するのが修行なんです。
どうしたらできるかということじゃない
どうしたらということになると考え方になる。
それは修行じゃないです。
● 雑念が、雑念がって言いますけれども、それはあなたがそう名付けただけのことでしょう。
念に雑念もなにもありません。
● 念が自分に起こってきていると考えるものだから、それを問題にしてしまうんです。
[自分というものは元々ないので、念は自分の中で起こっているのではない
だけど、自分があるように錯覚しているので、念が自分に起こっていると思い込んでいる]
● 悟っている人も、悟っていない人も、同じ所で生活しているんです。
というと、「何をしていてもいいんだな」と考えることではありません。 それは考え方です。
そういうんだったら、この教えを聞かないほうがいいです。
● 「事実」って言われても、みなさんの思っている事実は、認識で捉えた事実なんですよ。それだけズレがある。
「事実」は、人間の考え方なんか到底及ばない世界の話ですよ。
● もし本気で参禅していたら 他人の事など まったく関係ないものです。
修行中、自分のお茶は自分で入れて飲み、自分で片付けて自分で洗いなさい。
他人のお茶を入れたり洗ったりする必要はありません。(摂心での休憩中のこと)
● 進歩しない人ってのは、言われた通りのことをやっていないんだね。
坐禅会や摂心に来ても、麻薬を打ちに来ているみたいなもので、
話を聞いて気持ちよくなって帰って、
麻薬が切れそうになったら、またやって来る。
そして気持ちよくなって帰るだけ。
全然実践してないんだね。
● [臘八摂心後の茶礼で、井上哲秀老師が]
(よその坐禅会や摂心ではきつい警策があって厳しい修行をさせるという話が出たので)
井上老師の一派は、警策は基本ありません。
でも、もし言われたとおりのことを自分でやらなかったら、10年続けようが何の進歩もしませんから、ある意味ここが一番厳しいですよ
2015/6/16
参加者:(長時間一連の法話を聴いたあと) お話を伺っていますと、わたしは悟ろうとは思いません。私が悟れるとは思いませんが。
井上哲玄老師:悟った人が、「だれでもできますよ」と言っているんです。
お釈迦様は、そういう人に、「あなたは傲慢だね」と言われました。
卑下慢と言って、自分を卑下する人は、増上慢(ぞうじょうまん=傲慢)と同じなんです。
悟った人が、「だれでも悟れますよ」と言っているんです。
悟っていない人が、そうではない と言うなら、その根拠を示さないといけませんね。
哲玄老師曰く
●少しでも我流が入ると坐禅になりません
●何かこれはという体験があれば、すぐに独参に行き、師家に話す
これはという体験がなくても、独参に行く
●「坐禅中はいいんですが、日常の工夫ができないのです」というのは
そもそも、それ坐禅になっていない ということです
●「この状況(境地)を維持する」なんてことはできない
哲玄老師とはじめて来られた人との一対一の質疑応答から 2012年
Q.
それが「自性を見る」っていうことなんですか?
A.
そうそう。自性を見るっていうことはそういうことですよ。
Q.
今の、この見えることとか、聞いてる、これだけですか。
A.
それだけ。
今あることだけっていっても、「今あることだけだ」っていう「捉え方」なんですよね、ほとんど。
Q.
はい。
A.
だからズレがあるんですよ。
要するに、認識の上に乗っかってきているものを事実だと私たちは思ってるんですよ。
それはもう過ぎ去ったことなんです、みな。
人が捉える前の状況に用があるんでね。
Q.
(机を指して)これを机と思う前に?
A.
机と思おうがなんと思おうが、こうやって目の前に出てきたら、このとおりのことがはっきりしてるでしょ。
Q.
はい。
A.
はっきりしているって言われると、「はっきりしている」という認識を通してね、いろいろ思うんじゃないですか。
「じゃあ見えていることが事実なのか」とかね。いろんなことを思わないですか?
Q.
思います。認識を、あくまで自分の感覚を通してる認識だから、「科学的に見たら」って考えてしまいます。
A.
そうそう。
Q.
そう思う前の、この触れた感じですか。
A.
そうそう。
だけど間違いなく、その、人の認識する前のところで人は生涯生きてるんですよ。
生涯、いつも、そこから離れては生きていないんですよ。
ところが残念ながら、間髪を入れず、人の認識が動くもんだから。で、認識で捉えたもののほうを大事にしてるんですよ。
「事実」って言われても、認識で捉えた事実なんですよ。それだけズレがある。
そこだけが、実証していく上での一番ポイントになるところなんですね。
だから、一度、人間を放棄して来なきゃだめだとかっていうようなことが言われてるでしょ、古人なんかでも、ねえ。
Q.
人間的な見方していったら…。
A.
そうそう、人間的な見方。
今、学ぼうとしていることは、人間が人間社会の中に出てきて、そして人間的な生活をした中から、いろいろ問題点が出てきているわけでしょ。
「どれが本当だ」とか「真実は何か」とかって、いろんなことを思えているわけじゃないですか。
そういうものの中から、そういう欲求でもって、ものをこう追求してきてるわけじゃないですか。
初めからズレてるってこと。
Q.
最初からズレてるんですか。
A.
最初からズレてるんです。
Q.
分かります。分かりますっていうと変ですけど。
A.
だから、こうやって、「コン」、音がしてもね、もう、認識する時には無いでしょうが。
聞こえた音は。こんなこと言ったらじゃあどうするって言ったら、する時にどこでするのかってことが出てくるじゃないですか。
無いものを相手にはできないはずでしょ。有るもの、「コン」、でしょ。
今、触れて、今、有るところでの話ですよ、全部。
だから人間の考え方なんか到底及ばない世界の話ですよ。
もっと言えば、人間のそういう考え方が一切関係ないっていうことで生きてきたっていうこと。
自分に用があろうがなかろうが、気に入ろうが入るまいが、そんなことは人間が考えた世界の話でしょ。
そういうことに関係なく、音がすりゃ聞こえるようになってるし、しゃべってればしゃべったとおりの言葉に聞こえるようになってるし。
疑う余地がないでしょ。
Q.
疑う余地がないですね。
A.
だから、そんなにはっきりしてるでしょ、っていうことを言ってきたんじゃないですか。
Q.
それが、答えなんですか、すべての見性の?
A.
見性というよりも、見性っていうのはその核心に触れるってことですけども、生きてるってのは、
見性するとかせんとかに関係なく、いつでもそこで生きてるんですよ。
見性したとか、例えば、大悟したとかっていうことがありますけどもね、
全く、見性した人も、大悟した人も、しない人も、同じところで生きてるんですよ。
Q.
今、この現実…。
A.
(うなずいて)現実は。
確証が得られてるか得られてないかっていうことは、いまいうことで問われますけどね。
見性してるか、ないしは大悟してるかっていうことは。
そういう体験すらもきれいに忘れ去られるほど、跡形のない人になってるっていうことと。
そういう違いはあるけれども。
じゃあそうなるのにはどうしたらっていうことが出てくるでしょ。そういうような状況になるのには。
「なるようにはどうしたらいいか?」ということが、初めっからもう間違いなんでね。
Q.
なってるからですか。
A.
そうそう。
すでに誰もなれてるものに対して、「どうしたらそうなれるのか」っていう追求の仕方をする。
だから、要は、触れてるとこ、「コン」、はもう抜きなんです、そのことは。
もっと言えば、無視されるっていうのか、大事にされてない、そこのとこは。
もう全く大事にされないで、認識で捉えた事実を大事にしてものを追求してくるでしょう。
そのために、やってもやっても、この距離はもう縮まらないね。下手すると縮まるどころか、どんどん距離ができてくる。
ほとんどそういう修行の仕方をしてるんですよ、みなさんは。
Q.
ありがとうございます。
A.
大して難しいことじゃないですよね。毎日朝から出来てる様子なんだから。
どうしても人間的な思考でもって取り扱うっていうことだけが全部邪魔してるだけなんで。
Q.
修行するのは、そういう、間違った方向をつかまないために、完全になくすために…。
A.
修行するっていうことは、だから、どこまでいってもね、また「なくす」方向に行くでしょ。
そうじゃなくて。
言葉として「なくならなきゃいけない」とかっていう表現があるとしますよね、まあたくさん使われてるから、あるんですよね。
「なくさなきゃいけない」ってことは、今あるからなくさなきゃいけないんだと思ってみんなやり始めるわけですよ。
邪魔してるものがあると思って。
「そういうものを取り除かなきゃならん」っていう方向に行くんですよ。
そうじゃなくて。
Q.
初めから無いから、と。
A.
初めから無いところに目を着けないと、今言うように、「なくす」方向にまた行くんですよ。
Q.
間違いやすいんですね。
A.
間違いやすい。
Q.
「全ては初めから一如で、もともと何も問題ない。そのまま手を付けなければこのままでいいじゃないか」ということも、
そういう認識になってしまっているということですか?
そういった認識そのものが要らないってことでしょうか?
A.
そうそう。
それは少なからず、いろいろ見たり聞いたり、今まで自分のやってきた中で培われたものでしょ。やっぱり、あなたの中で作られたものです。
Q.
頭の中で?
A.
頭の中で作られたもので、一応結論として得てるんですよね。
だけどそれは、結論として得てる内容は間違いないですよ。あなたの中で得てる結論は、全て、もうどうせんでもいいようになってる。
だから、どうせんでもいいようになってるんだから。
修行っていうものは「なにかする」ことだと思ってますよ、みな。修行ってのは。
修行ってのは、なにもしないことなんですよね。
なにかやろうってことは、必ず、全部作り事。
Q.
手を付けないってことですよね。
A.
手の付けようがないってことは、「コン」、触れたことに対してね、なにか手を付けてね、もうひとつの聞き方があったり、
もう少し言えば、真実とはっていう時に、今触れてることが真実でないと思えることがあった時にはですね、もうひとつ真実を探すじゃないですか。
Q.
他の?
A.
他のことを探ろうとするじゃないですか。
だけど、探ることも出来なければ、やり直すことも出来ないし、手の付けようがないようになってんです、今触れたことは。今でしかないんだから。
Q.
人間の力じゃどうしようもない。
A.
そうそう、人間の力ではどうしようもない。だから人間の力を費やさないことが必要になってくるんですよ。
だから、何もしないっていうか、手を付けないってことは何もしないってことです。
そういうのは、道元禅師のお示しなんか見ても「自己を運んでものを証する、これを迷いと言う」と示されてるでしょ。
で、「もの来たって自己を証する、これを悟りと言う」と示されてるでしょ。
だから、「コン」、この音に触れて、「人」と言われるものの、このものの真相が明確になるということは、「コン」、もののほうからの話です。
Q.
音が証明する。
A.
音が証明する。
音が証明するっていうことは、このとおりになってるっていうことでしょ。
だけど、言葉だからね。
Q.
そのとおりしかない。
A.
そのとおりしかないっていう。そのぐらい、ものによって証明されている。
だけど、「コン」、これに触れた時にね、考え方を使って、どうあるのかって結論を出したとしても、
それは自分の中で出した結論の話であって、
そういう、ものの扱い方っていうのか、修行の向きとしてね、そういう方向に行くことは、それは迷いの、もう、根源なんですよ。それは。
「コン」、この音、迷われないでしょ。
Q.
はい。聞こえます。
A.
そのとおりで。
で、聞こえたって言うけど、どこにあったのって言ったら、もう跡形無いじゃないですか。
跡形が無いようになってるからこそ、次の音も、それをちゃんと、そのとおりに活動するようになってんじゃないですか。
だからこれ(自身を指して)、活動体ですよ。ものに触れては活動している。
(2時間の対話の一部でした)
Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。
何が違うのかよく分かりません。
A.
「自分を眺める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。
自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。
そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。
本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。
私:悟りたいんですが・・・どうしたらいいですか?
老師:全部すててください
私:え(@@) 全部ですか・・・・...
老師:「あるのは、今 ここ 事実だけ。
過去も未来も自分の記憶や思考の中にあるだけ
これはいいとか悪いとか
どうのこうのは自分の都合で自分がつくっているにすぎず
ただ今 事実を 静かに そのままにしておく
すると 自分という認識がなくなって自分が死に切る
それが さとり
さとろうと思っているのも思考の私であり さとりから離れていく・・・
私:人生の目的ってなんですか?
老師:目的はありません。
私:え。(00)・・・・
私:人生に目的や使命があるならば、それを全うして生きたいなぁと思って・・・・
老師:目的はない。それも自分がつくった認識。
ブログ http://ameblo.jp/hisyonomori/entry-11820165126.html から引用させていただきました
決着―本当に底抜け悟ると、もう決して迷わない
井上哲玄老師と、ある参禅者の質疑応答です。
この参禅者は博士号を取得している若者で、はじめて井上哲玄老師のところにやってきたばかりで、どんどんと鋭い質問で突っ込んで行きます
Q.
納得できる時期がいつか来るとおっしゃいましたが、納得した後に、また「満足しないもの」が出てこないと言い切れるんですか?
A.
そりゃ、もう、決着したらね。
Q.
なぜそういうふうに言い切れるんですか?
私たちが生まれてきた時、物心つく前っていうのは、そういうことを知らなかったと思うんですが、
自然にそういう迷いが知らないうちに出て来たわけですよね。
ということは、決着が付いてそういう状態に戻っても、また知らないうちに湧いてしまうという事はないんですか?
A.
それはあり得ない。
Q.
なぜ、あり得ないんですか?
A.
物心つくっていう前の自分のありようっていうものが明確になるからです。
何にも知らなかった世界にきちっと安住できたら、そっからは、迷うとか、そういうようなことが、出て来ない。
それはね、人の一念心ていう思いがチラッと動いた時に、
そっからいろんなことがこう発生していくっていう、根源がはっきりするからじゃないですか。
もちろん、コトとしてはいろんなコトが全部起きてきますよ、同じように。
Q.
じゃあ、生まれる前の全く知らなかった状態とは違う、
明確に知った状態になるっていうことですか?
A.
そりゃもちろん、そういうことを知るっていうことは、人の認識が生じて初めて、「知る」ということがそこに行われる、出て来るんだから。
知ったことのほうに用があるんじゃないんですよ。
知る前の人の様子というところに落ち着くっていうことです。
だから一度、自分の存在も、ものの存在も、全くないところまで落ち切ってしまわないと、そこのところが明確にならないということだけです。
Q.
元々落ち切ってたわけですよね、生まれる前は?
A.
だから、元々落ち切ってたとこで生活してるんだけど、それも知らなかったの。そんなことも知らない。
知らなきゃ役に立たんでしょ。
Q.
じゃ、次は、知ったまま落ちていくっていうことですか?
A.
知って初めて、そこが明確になるから。
でも、「知った」ということに用があるわけじゃないですよ。
知る前の、そこに、「私」らしい、いわゆる「自我観」を持った「人」らしいような存在が全くない世界を、きちっと把握するっていうことだから。
それは、今だってみんなそうやって生きているんですよ。
ただ残念ながら、チラッと、考え方というもの、認識作用が生まれて、いわゆる「自我観」が生まれて物心つくということ、
それを土台にして生きてるから。
そっから、そっからだけの話だよね、皆ね。
そこのところが本当に明確になったかたは、お釈迦さまが、今のところ、歴史上で私たちが知り得る範囲の中では一番最初のかたですよね。
お釈迦さまの体験されたものが、一番優れている。
他は全部考え方の世界で作ったものです、ことごとく。
お釈迦さまの教えは、決定的に違うものです。
Q.
ということは、坐禅をするにつれて、そういうものが落ちていく?
A.
落ちていくね。
Q.
落ち切った時には「知るもの」もないという?
A.
そうです。
Q.
ていうことは、落ち切った状態の後に、「知るもの」が出て来た時に分かるということですか?
A.
そうそう。
それが、何の縁でそういうふうに「知る」という認識がそこで動くかといえば、お釈迦さまで言えば、明けの明星の光が目に入った時に、初めて、そこで、認識がまた動いたっていうこと。
認識が死に切っていた世界では自覚することは不可能です。認識が動いて自覚するんだから。
でも自覚する前の状況がそこで明確になるということです。
自覚ということがあって初めて明確になる。
でも、そこで「知ったこと」のほうを大事にしようとすると、それはもう概念化されたものなんです、そっから先は。
で、概念化されたものを持って生活しようとすると、どうしてもフィルターを通すの。概念ていうフィルターを通してものを見るようなことが起きてくる。
そのためにまた、なんとなくしっくりしないってことが起きるっていうこと。
だから、「知ったもの」に用があるわけじゃない。知ったらそれで終わりなんです。
だけど、多くは、知ると、「知ったもの」を大事にするから。
「知った人」がそこに、いつまでも存在をする…残るっていう表現でいいのかね。
その「知った人」まで、もう一度。
一番最初から「知った人」なんて残ってなんかいなかったんですよ。
そんないい加減な気付きかたじゃないですよ。
元のところを振り返ってみたら何にもなかったはずなんだけど、そこに「知った自分」があるために、どうしても、チラチラとそういうものが動くということはあるということです。
Q.
その落ち切ってしまった状態というのは、普段生活している中で自然に起こっているということはないですか?
A.
うん。ほとんど、知らんで生きているでしょう。
Q.
では、なぜ気付かないんでしょうか? 普段忘れていて気付いていない時も一杯ありますよね。
それも落ち切っている状態だと思うんですが、その瞬間瞬間に「知っているもの」が起こってきますよね。
その時になんで気付かないんですかね?
A.
そりゃ、底抜け、底抜け、落ち切っていないということがある。
普通に落ちてるって、人が「落ち切った」っていうような見方をしているような落ち方では駄目だっていうことです。
2012/11/25に、遠方から来られた初参禅のかたが、哲玄老師と一対一で質疑応答をされました。
2時間あまりの対話でしたが、幸いにも同席させていただき、掲載の許可をいただきましたので、その一部をここに公開します。
(冒頭部分、録音なしのため略)
Q.
それが「自性を見る」っていうことなんですか?
A.
そうそう。自性を見るっていうことはそういうことですよ。
Q.
今の、この見えることとか、聞いてる、これだけですか。
A.
それだけ。
今あることだけっていっても、「今あることだけだ」っていう「捉え方」なんですよね、ほとんど。
Q.
はい。
A.
だからズレがあるんですよ。
要するに、認識の上に乗っかってきているものを事実だと私たちは思ってるんですよ。
それはもう過ぎ去ったことなんです、みな。
人が捉える前の状況に用があるんでね。
Q.
(机を指して)これを机と思う前に?
A.
机と思おうがなんと思おうが、こうやって目の前に出てきたら、このとおりのことがはっきりしてるでしょ。
Q.
はい。
A.
はっきりしているって言われると、「はっきりしている」という認識を通してね、いろいろ思うんじゃないですか。
「じゃあ見えていることが事実なのか」とかね。いろんなことを思わないですか?
Q.
思います。認識を、あくまで自分の感覚を通してる認識だから、「科学的に見たら」って考えてしまいます。
A.
そうそう。
Q.
そう思う前の、この触れた感じですか。
A.
そうそう。
だけど間違いなく、その、人の認識する前のところで人は生涯生きてるんですよ。
生涯、いつも、そこから離れては生きていないんですよ。
ところが残念ながら、間髪を入れず、人の認識が動くもんだから。で、認識で捉えたもののほうを大事にしてるんですよ。
「事実」って言われても、認識で捉えた事実なんですよ。それだけズレがある。
そこだけが、実証していく上での一番ポイントになるところなんですね。
だから、一度、人間を放棄して来なきゃだめだとかっていうようなことが言われてるでしょ、古人なんかでも、ねえ。
Q.
人間的な見方していったら…。
A.
そうそう、人間的な見方。
今、学ぼうとしていることは、人間が人間社会の中に出てきて、そして人間的な生活をした中から、いろいろ問題点が出てきているわけでしょ。
「どれが本当だ」とか「真実は何か」とかって、いろんなことを思えているわけじゃないですか。
そういうものの中から、そういう欲求でもって、ものをこう追求してきてるわけじゃないですか。
初めからズレてるってこと。
Q.
最初からズレてるんですか。
A.
最初からズレてるんです。
Q.
分かります。分かりますっていうと変ですけど。
A.
だから、こうやって、「コン」、音がしてもね、もう、認識する時には無いでしょうが。
聞こえた音は。こんなこと言ったらじゃあどうするって言ったら、する時にどこでするのかってことが出てくるじゃないですか。
無いものを相手にはできないはずでしょ。有るもの、「コン」、でしょ。
今、触れて、今、有るところでの話ですよ、全部。
だから人間の考え方なんか到底及ばない世界の話ですよ。
もっと言えば、人間のそういう考え方が一切関係ないっていうことで生きてきたっていうこと。
自分に用があろうがなかろうが、気に入ろうが入るまいが、そんなことは人間が考えた世界の話でしょ。
そういうことに関係なく、音がすりゃ聞こえるようになってるし、しゃべってればしゃべったとおりの言葉に聞こえるようになってるし。
疑う余地がないでしょ。
Q.
疑う余地がないですね。
A.
だから、そんなにはっきりしてるでしょ、っていうことを言ってきたんじゃないですか。
Q.
それが、答えなんですか、すべての見性の?
A.
見性というよりも、見性っていうのはその核心に触れるってことですけども、生きてるってのは、見性するとかせんとかに関係なく、いつでもそこで生きてるんですよ。
見性したとか、例えば、大悟したとかっていうことがありますけどもね、
全く、見性した人も、大悟した人も、しない人も、同じところで生きてるんですよ。
Q.
今、この現実…。
A.
(うなずいて)現実は。
確証が得られてるか得られてないかっていうことは、いまいうことで問われますけどね。
見性してるか、ないしは大悟してるかっていうことは。
そういう体験すらもきれいに忘れ去られるほど、跡形のない人になってるっていうことと。
そういう違いはあるけれども。
じゃあそうなるのにはどうしたらっていうことが出てくるでしょ。そういうような状況になるのには。
「なるようにはどうしたらいいか?」ということが、初めっからもう間違いなんでね。
Q.
なってるからですか。
A.
そうそう。
すでに誰もなれてるものに対して、「どうしたらそうなれるのか」っていう追求の仕方をする。
だから、要は、触れてるとこ、「コン」、はもう抜きなんです、そのことは。
もっと言えば、無視されるっていうのか、大事にされてない、そこのとこは。
もう全く大事にされないで、認識で捉えた事実を大事にしてものを追求してくるでしょう。
そのために、やってもやっても、この距離はもう縮まらないね。下手すると縮まるどころか、どんどん距離ができてくる。
ほとんどそういう修行の仕方をしてるんですよ、みなさんは。
Q.
ありがとうございます。
A.
大して難しいことじゃないですよね。毎日朝から出来てる様子なんだから。
どうしても人間的な思考でもって取り扱うっていうことだけが全部邪魔してるだけなんで。
Q.
修行するのは、そういう、間違った方向をつかまないために、完全になくすために…。
A.
修行するっていうことは、だから、どこまでいってもね、また「なくす」方向に行くでしょ。
そうじゃなくて。
言葉として「なくならなきゃいけない」とかっていう表現があるとしますよね、まあたくさん使われてるから、あるんですよね。
「なくさなきゃいけない」ってことは、今あるからなくさなきゃいけないんだと思ってみんなやり始めるわけですよ。
邪魔してるものがあると思って。
「そういうものを取り除かなきゃならん」っていう方向に行くんですよ。
そうじゃなくて。
Q.
初めから無いから、と。
A.
初めから無いところに目を着けないと、今言うように、「なくす」方向にまた行くんですよ。
Q.
間違いやすいんですね。
A.
間違いやすい。
Q.
「全ては初めから一如で、もともと何も問題ない。そのまま手を付けなければこのままでいいじゃないか」ということも、
そういう認識になってしまっているということですか?
そういった認識そのものが要らないってことでしょうか?
A.
そうそう。
それは少なからず、いろいろ見たり聞いたり、今まで自分のやってきた中で培われたものでしょ。やっぱり、あなたの中で作られたものです。
Q.
頭の中で?
A.
頭の中で作られたもので、一応結論として得てるんですよね。
だけどそれは、結論として得てる内容は間違いないですよ。あなたの中で得てる結論は、全て、もうどうせんでもいいようになってる。
だから、どうせんでもいいようになってるんだから。
修行っていうものは「なにかする」ことだと思ってますよ、みな。修行ってのは。
修行ってのは、なにもしないことなんですよね。
なにかやろうってことは、必ず、全部作り事。
Q.
手を付けないってことですよね。
A.
手の付けようがないってことは、「コン」、触れたことに対してね、なにか手を付けてね、もうひとつの聞き方があったり、
もう少し言えば、真実とはっていう時に、今触れてることが真実でないと思えることがあった時にはですね、もうひとつ真実を探すじゃないですか。
Q.
他の?
A.
他のことを探ろうとするじゃないですか。
だけど、探ることも出来なければ、やり直すことも出来ないし、手の付けようがないようになってんです、今触れたことは。今でしかないんだから。
Q.
人間の力じゃどうしようもない。
A.
そうそう、人間の力ではどうしようもない。だから人間の力を費やさないことが必要になってくるんですよ。
だから、何もしないっていうか、手を付けないってことは何もしないってことです。
そういうのは、道元禅師のお示しなんか見ても「自己を運んでものを証する、これを迷いと言う」と示されてるでしょ。
で、「もの来たって自己を証する、これを悟りと言う」と示されてるでしょ。
だから、「コン」、この音に触れて、「人」と言われるものの、このものの真相が明確になるということは、「コン」、もののほうからの話です。
Q.
音が証明する。
A.
音が証明する。
音が証明するっていうことは、このとおりになってるっていうことでしょ。
だけど、言葉だからね。
Q.
そのとおりしかない。
A.
そのとおりしかないっていう。そのぐらい、ものによって証明されている。
だけど、「コン」、これに触れた時にね、考え方を使って、どうあるのかって結論を出したとしても、
それは自分の中で出した結論の話であって、
そういう、ものの扱い方っていうのか、修行の向きとしてね、そういう方向に行くことは、それは迷いの、もう、根源なんですよ。それは。
「コン」、この音、迷われないでしょ。
Q.
はい。聞こえます。
A.
そのとおりで。
で、聞こえたって言うけど、どこにあったのって言ったら、もう跡形無いじゃないですか。
跡形が無いようになってるからこそ、次の音も、それをちゃんと、そのとおりに活動するようになってんじゃないですか。
だからこれ(自身を指して)、活動体ですよ。ものに触れては活動している。
最後に、
老師の言葉。
「本やインターネットで文章を読んだり映像を見たりして理解すると、ほとんどの場合、間違います。実際にお会いして話してみると、勘違いされているということがよく分かります。だから興味を持たれたかたは、ぜひお寺に来て、直接お話ししてください。」
井上哲玄老師に会うにはこちらからお問い合わせ下さい
昔は線香一本を立ててそれが燃え尽きる時間を坐禅1回の時間としました。
曹洞宗では、坐禅1回を40分としています。線香1本の長さの時間ということで
それを1炷(ちゅう)と名付けています。
従いまして、坐禅3炷の坐禅会というと、40分×3だけ坐禅をするということになります。
ただし、間に経行(きんひん)という歩行禅、抽解という東司(とうす=トイレ)時間を取り入れています。専門僧堂のようなところでは修行者の数も多いので、経行10分、抽解10分としています。
従いまして、坐禅40分⇒経行10分⇒抽解10分 合わせてちょうど1時間になりますので、
◯時20分から坐禅を始めますと、いつも◯+1時に坐禅が終わるので管理上は便利です。
禅堂に時報を鳴らす時計がありますと、坐禅の終了の合図に使えるので管理上大変便利です。
(あくまでも運営側の話です)
ただ、お寺が大きくない、市街地の貸し会場や一般住宅を坐禅会場として使用する場合は、経行を10分もできません(人と人がくっつき過ぎるので)
なので、経行5分、抽解5分にすれば良いと思います。
もう一つ経行5分、抽解5分にするメリットは、特に抽解5分だと東司(とうす=便所)に行く時間しかないので、その間に参禅者が不要な会話をすることもないので、おすすめです。
40分+5分+5分=合計50分になりますが、今はスマホなどでそれが簡単に計測できます。
坐禅アプリなども出ているのでそれを活用すれば良いです。
坐禅アプリの中には、鐘の音を鳴らすのもあるので、一般住宅などで坐禅会をする場合、お寺のような鳴らしものがなくても、それに近い音を出すことが可能です。
自分の修行(坐禅)が独りよがりになっていないか、老師から聞いた話に自分で解釈をいれて別のものに変えて受け取っていないか、そもそも正しく話を聞けているのか、自分の坐禅が本当の坐禅になっているのか、それをチェックしてもらうのが独参です。
ハッキリした人(悟った人)でないと考え方に陥っている人の誤りを指摘することができません。
1人の参禅者が老師に独参に行き、それが終われば次の1人が老師に独参に行くわけですが、これを効率よくやるにはちょっとしたノウハウが必要です。
専門僧堂では、独参は独参場という一室にそこに到着したものから順に正座をして並び、これから独参に行く人が鐘を鳴らしてから老師のところに独参に行き、それを順番に行います。
しかしながら、井上義衍老師系統の場合は、1人に対する独参時間が結構長いので、そのようにしていると列の最後の方に来た人は、ずっとそこで何時間も過ごすことになります。
それでも良いと言えば良いのですが、ベターな方法があります。
それは、自分の独参になったらだれかに独参に行くように呼び出してもらうということです。
主催者がやると主催者は坐禅できなくなるので、それを各自に分担してもらうことで効率よくする方法があります。
独参に行きたくない人は別に強制されません。
受付時に、独参に行くか行かないかを選んでもらい、行く人に独参札を渡します。それには独参番号が書いてあります。それを自分の単の横に置いて坐禅をします。
番号順に独参に行きます。1番の人は独参が終わったら部屋から退出したらすぐに2番の人を呼び出します。もちろんそれが坐禅時間中であってもある程度の大きな声で、
「独参2番の方、どうぞ」
というように呼び出します。
それを繰り返します。
こうすることによって、主催者が独参者を次から次へと呼び出すという負担がなくなります。
まだこれから加筆していきます。
坐禅会がお昼をまたがって行われる場合は、食事のことを考える必要があります。
一番良いのは、昼食と飲み物を各自持参してもらうことです。
食事のゴミやペットボトル・缶も持ち帰ってもらうようにした方が良いです。
講師への謝礼、講師食事代・飲み物代、講師往復の交通費、講師宿泊費、坐禅会の会場費、主催に要する経費(道具、場合によっては坐禅用坐蒲(坐禅用の丸いクッションなど)、主催者・世話役の駐車場代)、講師の帰りの食事代などを参禅者数の予測などから赤字にならないように会費を設定します。
特に会場が講師の居所から遠方の場合は、交通費の割合が大きくなり、それが、坐禅会費に反映されます。
なお、老師が2023年で数え年91歳という高齢ですので同行者が必要です。その方の交通費・宿泊費も必要となります。
エクセルを扱える人は、収入と経費を項目別に入れて収支計算できるようにしておけば、何人の参加者で黒字か赤字かの目処が立ちます。赤字ならば会費を上げざるを得ません。
もし、前日、翌日に近くの別の会場で坐禅会が行われる時は、その主催者と交通費負担の相談をすれば、講師交通費という経費が少なくて済むので、場合によっては、会費を安く設定できます。
あるいは遠距離の場合、全国の老師参禅者から寄付を募ることも考えます。
たとえば北海道で坐禅会を開きたいということで、全国の参禅者に北海道坐禅会開催のための寄付を募ります。純粋な寄付でもいいのですが、クラウドファンディングで言う「購入型」のように「返礼(リターン)」を用意します。たとえば老師に揮毫をお願いし、寄付の方にそれをプレゼントすると寄付が集まりやすくなります。今の時代はネットがあるので全国から寄付を募りやすいです。
最寄り駅と会場間の送迎をする必要があります。主催者が出来ない場合がほとんどだと思うので、あらかじめ送迎をだれかに頼んでおきます。
(老師は2023年現在で数え年91歳のご高齢ですので1人随行されます)
その前に講師の到着時間、出発時間などをメールなどで教えてもらっておく必要があります。
できれば誰かに頼んでおきます。
受付用紙はファイルを作り同じものを最低2枚印刷して用いると便利です