曹洞宗を復興させた 井上義衍老師の生涯

井上義衍老師略伝― 25歳で大悟,法を自由自在に説いた禅僧

500年に一人、曹洞宗中興の祖とされる禅僧・井上義衍老師

井上義衍老師

井上義衍老師略伝 (1894-1981)

明治27年に広島県瀬戸内の島に生まる

19歳、首座立職の際、父・翫光和尚より「蚯蚓斬ッテ両断トナス。仏性那頭ニカ在ル」(ミミズを切ったら二つになった さあ、仏性はどっちにある?)と問われ、返答に窮し責めらる その後三年の間、片時も念頭を離れず

 

22歳、東京芝青松寺僧堂・北野元峰老師*に参ず 「本来人是何者」の公案を与えられて、脇目もふらず参禅する。疑団は益々つのり来たる

*北野元峰禅師 は義衍老師が最も尊敬された人の一人

 

25歳、覚王山日泰寺僧堂(上田祥山老師)に掛搭(かた) そのうち、修行仲間と公案修行を放擲 只管打座に打ち込む 一日再三誘われて意ならず市内新盛座へ出掛けて、観劇の最中、俄かに忘我して満員の観衆もなく、自己もなく全く前後を忘ず。

明星一見の大事、絶学無為の真相を確証し竟る。大悟。

 

この後も、坐禅に打ち込む。ある時一寺院の留守番を頼まれたるも、終日坐禅三昧の生活を送る

やがて静岡浜松の山寺貧乏寺・龍泉寺に住職す

而も、寺院の経済を顧みぬため寺院は全く困窮す

 

飯田とう隠老師の提唱の前座を務めたことがきっかけとなり、老師の実力を知る

その後大阪高槻の少林窟道場・飯田欓隠老師(飯田とういん老師)摂心に通い、飯田トウ隠老師及びその法嗣・伊牟田欓文(トウ文)老師に参禅する

 

ある時、ホオジロの声を聞いて、いわゆる鑑覚の病を脱して、修行に決着がつく 真に自在の境涯を獲得す

 

それまでに、

原田祖岳老師、梶田慧舟老師(京都府宇治興聖寺の回天慧杲和尚の印可)、飯田トウ隠老師の3人から印可証明を得る [飯田欓隠老師が井上義衍老師に書いた印可証明はさる人のところに現存する]

 

昭和26年位のことであるが、曹洞宗の道場では唯一悟りのことを言う優秀な某僧堂があったが、そこに在籍して修行中の俊英たちが、その道場での修行を途中で放棄して、続々と浜松の田舎の井上義衍老師の寺院に修行に集まったという

 

しかも、多くの者は道場には、静岡で独摂心をすると言って道場を出たらしい さらに、義衍老師のところには偽名で掛搭したとのこと 

師匠(得度をしてくれたお師匠さんや親)に知られ、道場にもどれと言われるのを恐れたのである 破門覚悟の上での行動である

 

特に浜松の義衍老師の寺院は曹洞宗公認の専門道場ではないので、そこにいても、住職資格獲得の何の足しにもならない ゆえに師匠に反対されるのは必定で、師匠にだけはバレたくなかったのである

 

しかしながら、

他からも、井上義衍老師の寺院に参禅者が次から次へと訪れ、食料は乏しきも、真剣な者の大叢林の観を呈す

ある時には食料が玉ねぎ1個しかなくこれを皆で分け合って食したという 玉葱僧堂と言われし由縁なり

龍泉寺では収容しきれぬため、黄檗の空寺(実性寺:現在の浜松医科大学の近く)のあるを借り受け、また10km離れた袋井の龍巣院禅堂を借り、後、蒼竜窟と名付く

接心は常に行われていた 常接心†という

のちに雲水や在家の修行者が増えたため、規矩(きく)を定め7日間の接心が年に10回行われるようになる

 

(†古人の修行の様子を書いたものを見ると、現代、曹洞や臨済の道場で行われてるような期間を定める接心ではなくて、昔の中国の禅宗最盛期(唐代、宋代)などは、禅堂に坐っていたいものは自分のペースで自由に坐禅していたものと思われる

 

従って、中国で何百人といるような道場では、常に禅堂で修行に励む人たち、固まりになって雑談ばかりしている人のグループ、猫を飼ってその世話ばかりやいている人のグループなどあったようである

 

また老師のところに独参に行くのも強制ではなくて、自由だったことは、臨済禅師の話などからも伺えるところである(臨済は黄檗和尚のもとにいて、3年間一度も独参に行かなかったが、首座の睦州和尚のアドバイスで独参に行き、それがきっかけで大愚和尚のところに行ってすぐに悟りを開いた そしてまた黄檗和尚の道場に戻っている)

 

 

今日は、接心会というのは期間を定めて5日~7日行われるようになった 在家(出家じゃない一般人)にとって接心(攝心会)は僧侶と同じように修行のできるとても大切な機会である

 

 

義衍老師の会下(えか)で見性をした出家者(青野敬宗,原田雪渓,川上雪担,斉藤大心,井上義寛,井上貫道,長谷川文丈,粕屋清隆,井上哲玄など)、在家者は少なからず

 

 

 

それらの中には、後進の指導者として知られるようになった方も多いが、またある者は山居して世に出でず

 

 

さらに、全国に禅会が発足し、義衍老師が招請された

(禅会というものは、師家自身が企画して出かけていくものではなく、その土地の熱心な有志が、師家(老師)に依頼して来てもらうものである)

 

 

在家で大悟を得た人には、山王タキノ女史(故人 義衍老師の印可証明あり 「印可証明」という見出しが付いている書、この人の姉は飯田とう隠老師の印可証明を持っている)、水野欣三郎居士(故人)、菅沼魯道居士(故人)など、出家在家合わせてすくなくとも合計20人以上が見性(大悟)したと言われる

 

また最晩年に義衍老師に参禅し、老師の遷化の後、上記の師に師事して開悟した人もある

 

義衍老師は、自坊での摂化の他に、静岡袋井・可睡斎僧堂の準師家(単頭老師)、名古屋市・覚王山日泰寺専門僧堂師家、富山尼僧堂師家なども務める 渡米・渡仏数回

晩年には、曹洞宗師家会会長も務め、NHKの『宗教の時間』※にも5度出演(3本のDVDとなっている)したが、宗門内での立身出世には全く関心がなく、浜松の龍泉寺に生涯とどまり、出家、在家の道を求める人の摂化に当たる

 ※現在のNHK『こころの時代』(日曜午前5時から、再放送は6日後の土曜午後1時から)

有名なイラストレーター横尾忠則氏が編集者と共に、日本全国の禅宗寺院有名無名の寺院を訪問して、沢山の師家に会うが、回想をしてみて、最後にもう一度会いたくなったのが井上義衍老師であり、再び、義衍老師の寺院を訪問して法を尋ねたという話は、その著書『我が坐禅修行記』(1978年)に書かれている

 

その本の編集者が、横尾氏に伴って義衍老師に会った時、老師は当時の日本の有名人である横尾忠則氏と同じように、その編集者に対しても、膝と膝とを突き合わせて親切に法を説かれて、人の差別をされなかったと言う

 

昭和56年3月2日世寿88歳にて遷化

釈尊の生涯を思わせる説法、この道の為に生涯を尽くす
遺偈は 「虚空打空 幾百億年 好天好天 我行脚日」
3月8日密葬 会葬の人々およそ五百名
4月26日本葬 全国各地より参集した僧俗は八百人程に及び、午前十時に開式された本葬は午後一時半に及ぶ

500年間出の逸材、古仏と尊敬され、今も義衍老師を慕う人数知れず

 

遷化後30年も経過せるも未だその言葉は著書となって発刊され続けているのは、業界でも異例のこととされている

道号は玄魯、諱は義衍、玄魯義衍大和尚 浜松・半田山龍泉寺中興開山

 

井上義衍老師の法燈は、上記の人達にもとで参禅修行せる人達によって続き、平成の今でも悟りを証明する人たちが続出している

(現在では、道を得ている普通の一般人男女も多く、「自分は平凡な一般人なので、人に誰々は悟りを得たとは言わないで(公言しないで)ください」と老師に口止めを頼んでいる人もいる)

 

また得悟していても素知らぬ顔をして、そのまま老師の坐禅会に参加し続けている一般人もいる

 

いずれにしても井上義衍老師と同じく釈尊の悟りを証明する人々(僧侶でない一般人も多い)が平成の今にもいるということである

 

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