井上義衍老師とは ←ここをクリック
問 坐禅によって自己の問題を本当に解決された方は、これまで実際に居られたのですか。
義衍老師:先ず第一に、私が居ります。釈尊や道元禅師など祖師方もそうでしたが、私自身それをやりました。やれたんです。私のもとにも何人かいます。決して独りよがりではない。釈尊から連綿として受け継がれて、現在に至っておるんです。
問65『学道用心集』に『正師を得ずんば、学ばざるに如(しか)ず』とありますが、その場合の正師とはどういう人ですか。
義衍老師:今話しているように、正師というのは本当に自分の真相に徹しきって、死んで生まれ変わってきた人です。
それはどういうことかといいますと、今までこれ(身)を自我心であると思うとったんです。
ところが一遍本当に自我心が死んでしまってみるというと、法として存在しているのです。だから法に近づこうと思うとったものが、百八十度ひっくり返って、そうじゃないのです。近づく要はないのです。
全部法で出来ておったことを自覚したんです。
そういうような人が正師といわれる人です。それだから只管ということも出てくるのです。
それから、非思量、不思量底を思量するような方法を本当に知っている、それを使い得る人、そういう人たちがやはり正師といわれる所以です。それじゃから眼(まなこ)の開いた人、仏知見が開いた人です。仏と変わらない知見の開けた人です。
仏知見を開くというと、仏いうものだから何か特殊なもののように思うんですわ。そうじゃないんです。「本来の面目」というと、「ああそうか」というて、誰もが承知するんです。面白いですね。
「本来の面目を知るんじゃ」というたら、「ああそれはそうじゃろう」という。ところが、「仏知見を開くんじゃ」というと、「ナニッ、釈尊と同じようなことをやれるなんて、とんでもない」というて怒る人がいる。そういうふうに、言葉の文(あや)によって間違わにゃならんほど、もう根底がわからんのです。
言葉を弄(もてあそ)んでいる人はそうなんです。
そういうようなのとは本当に違う。正師というのは間違いなくキチッとしているのです。
問66 なぜ正師を求める必要があるのですか。
義衍老師:正師というのは、本当に自己の真相に徹しきった人で、そういうことがはっきりしている人でなかったら、最終的にどこへ連れて行ったら良いのか、結論としてどうあったら良いのかということが絶対にわからんのですわ。
そうでしょう、教えられて、それらしいことをやっても、それらしく立派にできるようになったとしても、やれるのはやれるんじゃが、これで本当に良いのかとなる。
昔の人にもありますように、提唱させても、それを取り扱わせても、自由に取り扱うのだけれども、どうもどこか満足の行かん、どうして満足が行かんのかという人がいます。
そういうような人が出てきたら、皆をどこへ連れて行って、どうしたら決着がつくのかということがわからんでしょう。それじゃ救いにはならんのでしょう、本当はね。そういうところに、どうしても正師を求めなければならん理由があるのです。
それがないと、途中で妥協するんです。そうでしょう、このように十人が十人寄ってそのことを互いにこうやって、ある程度まで来ても、もう不自由なく、人が見ても自分が見ても法のごとくやれて、そして淡々としておるようだが、ただどこか疑いの拭いきれないものが兎の毛ほどでもあると、それだけ違ってくる。
そういったところで、「ナニどうせ人間だもの、こんなものじゃないか」というて妥協する。もうそうなったら、今度は次の人をこしらえる時分に、「人間の修行いうものは、悟ったというても、大体ここら以外には手が付けられんのが本当じゃないかなぁ」というて、不安の内に終わる道なんです。決定的に、「こうじゃっ」と言い切れないのです。そういう哀れさがあるから、それをしっかり救わにゃならんということですね。
じゃけれども、ここで問題はね、皆そういう人になれば良いんじゃけれども、皆そうなって欲しいけれども、そうばかりは行かんところがある。そうでしょう、いろんな条件によりますからね。やれば出来るということは決っておっても、その中で全部の人が全部、短時間にスカッと皆行くということは決っていないのです。
それだから、きちんとした人が居って、それの言うことが中心になって、それに準じて行っておると、途中におる人も、「やはりまだ私もそこまで行かんのじゃ」ということがわかるから、そして最後は行くべきもの、こうあるべきものということがわかるから、そういう標準はどうしても仏法の中になければいかんのです。
それがなければ、本当に追及してくる人があった時分に、始末がつかんのです。そうでしょう、行いも何もかにもみな出来た。出来たんだけれども、「どーも?」というて首をひねる人が出てきた時分に、手が付けられんでしょう。
そうすると、生命を失うところがある。そうでしょう。それは当たり前です。そんなことで本当に満足の出来るわけはないというところがあるから、ちゃんと指摘してあげれば良いのです。それが出来るのです。またそれをやらにゃいかんのです。
だけどまあ時間をかけて、やって、それに近いとか近くないとかいうことは、それはもう途中辺の事(じ)だけれども、仏法の中にそういうふうにきちんとしたものが絶対にあるということだけは決っておるのです。
その証拠は、道元禅師があんなに立派な力をもって、国内で修行しきって、誰が見ても「イヤー、素晴らしい」と言われるほどの人で、それが自分で疑問が起きてきて、その疑問に解決付ける道を誰に聞いてみても、「イヤー、それは難しい話だよ」いうて、皆終わっちゃったんです。「それじゃ難しくてもいいが、それはどういうことなのか」と聞いても、それをはっきり教える人がなかったんです。
それでたまたま今の中国へ行って、如浄禅師にお会いして、それをはっきりしてくれたのです。それがなかったら、おそらく道元禅師でも救われなかったんです。それがはっきりしておるから救われた。
それで『坐禅箴』なども出来たのです。坐禅の誤りとしての様子があるから、それをはっきりしなければいけませんよ、ということがあったのです。
御自分に。御自分が散々な目に合わされたからです。
以上、『問答 井上義衍老師 悟りの真相』(龍泉寺発行)より
龍泉寺の書籍注文リストでは 19、問答 井上義衍老師 悟りの真相 にあたります
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井上義衍老師の貴重なる法話は200巻のテープ(すべてCD化もされている)に収められているが、その中から、修行の要点を選りすぐり、180日歳月を要してできた井上義衍老師語録の粋!
それが、2014年3月2日刊行の
『井上義衍老師語録』
「これ一冊で修行の要点がわかります」―井上哲玄老師
文字も大きく、かばんに忍ばせることのできる文庫本サイズ 271ページ
値段は、自費出版の為、3,000円
https://ryusenzi.com/62791/%e6%9b%b8%e7%b1%8d%e3%81%ae%e6%a1%88%e5%86%85/
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龍泉寺の書籍注文リストでは 18、井上義衍老師語録併般若心経講説 にあたります
このページの下部に井上義衍老師の他の本のタイトルも書いていますので、追加でお申込み下さい。
お薦めは坐禅の仕方を井上義衍老師が懇切丁寧に説かれている
『普勧坐禅儀・坐禅用心記提唱録』3,000円 (在庫なしになりました) です
NHK宗教の時間のDVDは、井上義衍老師出演のものは5,000円です
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龍泉寺の書籍注文リストでは 16、玄魯老師テレビ出演DVD にあたります
●釈迦が脱落せられた時に始めて仏法は生まれたんです。
●本当に徹する時分には、自分も環境も、何も彼にもみな忘じてしまって更に見るべきものは何もないところまでゆかんと、実相としての、法の真諦(しんたい)としてのものに徹することはできないものです。
●人間の知覚とか、認識とかが間にさしはさまるものですから、そのために真実というものを分断するのです。
●「仏法に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」いつでも、すぐにものと自分とが一如になって、いつでも死んでいるんです。どんなものだって、みんな、そのものに同化されてしまっておる、その形容です。
●正受(しょうじゅ)とは、その通りにあるということです。
●修行する以前から、みんな身に備わっておるのが「道」なんです。
●向かおうとするだけ余分だった。そういうことがはっきりすればよい。
●「分からない」ということと「得ました」ということと、どちらもその程度です。同じことです。同罪です。喜んだり、悲しんだりする気配がどうしても残っているんです。その両者がコロツとない。帰家穏座(きかおんざ)です。
●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、それが迷いの根源なんです。それを人類ことごとく知らんのです。
●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、その人間、その人の考え方なんです。
●当てにならんものを当てにするから、それで苦労するんです。
●地球上にある、すべての問題は人間が作った。ゆえに人間が解決できないことはない。
●出てくる思いは、全部使える人になればよい。
●新着
死に切る
熱いものに直接ぶつかった(触れた)のと、常識的にそれに触れると熱いということとは違うんです。
直接ぶつかったときには、人もものも死んでしまうところがある。
死んでいるところにある熱さと、人間が、あらかじ予め心で用意して、火の中に手を突っ込んで、これが本当か、あれが本当かと探りをいれたのとは違うんです。
人間の見解じゃないんです。実物は。
本当のことを知りたかったら、そういう人間的に真面目そうな考えをもってやっても駄目ですよ。
そういう範囲のものじゃないんです。
本当に人法ともに絶滅しきって初めて得られるものです。
思いをもって(向うところがある)修行をしているということと、思いなしにあるということとは違うんです。
思いじゃなくて、あるという事実に生きているということ、との違いがあるんです。
そこのところに、ただ、眼をつけていただければいいわけです。
景色だって右を向けば右の、左を向けば左の景色が、あったり、なかったり、今、ここから始まって、今、ここに終わる事実が、あったり、なかったりする。
ただ、それだけに徹頭徹尾参じてご覧なさい。
その他に方法も手段もあるんじゃないんです。
龍泉寺参禅道場発行
(龍泉寺は、浜松市東区半田山の龍泉寺です 浜松市内には同名の龍泉寺が複数あります
〒431-3125 静岡県浜松市東区半田山4-18-5 )
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平成の今にも仏道を体現する数々の逸材・人材を遺されている井上義衍老師の貴重なる法話は200巻のテープ(保存のためすべてCD化もされている 【注 意】CDの販売はされていません)に収められていて、すでに井上哲玄老師の手によって多くが文字起こしされて書籍になっているが、まだ未発表のものもある その未発表のものの中から、井上哲玄老師が自らの体験に基づき、修行の要点を選りすぐり、180日歳月を要してできた井上義衍老師語録の粋!
それが、2014年3月2日刊行の
◯ 01 「井上義衍老師語録』(発行人:井上哲玄,井上哲秀) 「これ一冊で修行の要点がわかります」―井上哲玄老師 龍泉寺の書籍注文リストでは 18、井上義衍老師語録併般若心経講説 にあたります
かばんに忍ばせることのできる文庫本サイズ、文字は大きめで読みやすい 271ページ
値段は、自費出版の為、3,000円
上記菅沼魯道居士の体験談も書いてあります 菅沼氏が決着がついたのはその後ボットン便所に入っていて用を足していた時に起こったそうです
◯ 02 新刊『問答 井上義衍老師 悟りの真相』 3,000円 2019年3月2日発行 仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、と。老師ご自身の悟りの体験から、参禅功夫の要点を端的に示された参禅者必読の本です。龍泉寺の書籍注文リストでは 19、問答 井上義衍老師 悟りの真相 にあたります 内容についての詳細は、こちらを 目次は、こちらやこちら他、数記事に亘って詳述されています。
東京代々木の指導者で悟りの体現者である松本自證老師がまだ禅に参じていない時に、これを見つけて、「もうこれで修行が終わる」と感じられた本です 問答体の本です。
(松本自證老師は、それまで瞑想など色々な修行を遍歴し、この本に出会って、先ずは龍泉寺に行き、哲玄老師に会われました しばらく龍泉寺の坐禅会や接心に関東から通われました)
◯ 『無相傳光録』(2冊組 全 1,060ページ) 30,000円 (3万円) ※ 龍泉寺の注文ページでは 14、無相傳光録 となります 『無相伝光録』は、後世に必ず伝えるべき傑作です 曹洞宗大本山總持寺(そうじじ)御開山・太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんじ)の『傳光録』でんこうろく は、釈尊から道元禅師の弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう)禅師までの直系53人の祖師方の 悟りの機縁(いかにして悟りを得たか)を記したもの それを井上義衍老師が提唱されたもの 付属の『伝光録』原本(明治時代の出版の復刻本)も入手困難な貴重なものです
井上義衍老師の二十三回忌法要にあたり、出版されたものです かなり大部で、810ページの提唱録と250ページの和本原文 合計1,060ページ(明治時代の発行のものの復刻版)あります 300年保存可能な出口織特上製布製表紙装丁でさらに保存箱入り
意外に売れています 増刷はありませんので、今のうちに法財としてどうぞ 井上義衍老師の提唱部分は平易な文章で、本の一部だけ読んでも読めます (通読しないと分からない本ではありませんの意)
『無相伝光録』の一部をここに掲載しています
瑩山禅師の詳細は下記
◯ 『夢想 第一集~第四集合本』 3,000円
2016年12月18日一泊禅会の動画39分30秒で:
老師、『夢想 第五集』を掲げて、「もうこれだけで、この本一冊で、人生何も要らないんですよ。それくらいの内容のものです。」
◯ 『心銘提唱』 3,000円 再版
いくら老師から話を聞いても思い込みや先入観は恐ろしいもので、自分で正しい坐禅のつもりでも正しい工夫になっていない場合が往々にしてある それでは何年真面目に修行しようが、らちがあかない 特に坐禅は目に見えないので要注意である ある求道者が坐禅について質問したことで井上義衍老師が懇切丁寧にその間違いを正している 「真の道とは(遺稿)、自省の面目(遺稿)、仏道は自己なり、玄魯老師に捧ぐ、参師問法、功夫参禅弁道について如是我問、井上義衍老師の思い出、老師と龍巣院、無礙自在な老師の会話、人が人となる道、即今底、井上老師と私、義衍老師との出会い、ありがたいご縁、坐は不為なり、老大師様と私、老師の思い出、飄々とした後姿」
(正法眼蔵随聞記を著した孤雲懐奘禅師の書) ///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// ※瑩山紹瑾(けいざん じょうきん、1268年11月21日-1325年9月29日)は、日本の曹洞宗の第四祖 27歳 徹通義介禅師の指導の下、冬に大悟 詳細についてはこちら 石川門前町の總持寺祖院の開山となる 著作に『傳光録でんこうろく』など (のち明治時代末期にこの總持寺は横浜鶴見に移転し、曹洞宗大本山・總持寺とされる) 一般には瑩山禅師と呼ばれる 宗派内では道元を高祖(こうそ)、瑩山を太祖(たいそ)と尊称する 曹洞宗寺院にはこの2祖が本堂や開山堂の須弥壇に祀られている
瑩山禅師は、浄土真宗の親鸞上人(道元禅師)に対する蓮如上人(瑩山禅師)にあたる役割をしたと言えよう
(昔の仏教や伝統仏教では、女人禁制を敷いたり、女性は悟るのが難しいとされがちですが、中国や日本の禅の文献には、悟っているお婆さんが、未得道の修行僧を懲らしめる問答や逸話が多々あります 禅宗では女性も悟るのは当たり前のことです) 詳しくはこちらへ /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(CDの販売はありません 文字化されていないものも沢山あります 希望者には内容送ります 無料)
義衍提唱録刊行会発行 (新宿・紀伊國屋書店店頭で入手できます)
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27、仏性 (ぶっしょう) | 3,780円 |
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義衍老師提唱録刊行会(埼玉県)発行のものは、東京新宿の紀伊國屋書店でも販売されていますが、龍泉寺発行の義衍老師書籍を希望の方は、一緒に、このページからインターネット注文が可能です
お薦めは道元禅師・瑩山禅師の坐禅の仕方をみずからの体験を基に詳細に井上義衍老師が説かれている
『普勧坐禅儀・坐禅用心記提唱録』3,000円 です
「これだけ坐禅について懇切丁寧に説かれているのは義衍老師以外にないでしょう」
―井上貫道老師 (この書籍は他の書籍と同様、井上貫道老師の寺院・少林寺には注文できません
※印からご注文下さい)
『仏道は自己なり(玄魯義衍老師門下 求道者の記録)』 3,000円(在庫がなくなりました)
いくら老師から話を聞いても思い込みや先入観は恐ろしいもので、自分で正しい坐禅のつもりでも正しい工夫になっていない場合が往々にしてある
ある求道者が坐禅について質問したことで井上義衍老師が懇切丁寧にその間違いを正している
送料が別途かかります
ご注文は浜松市東区の龍泉寺の書籍販売ページから直接お願いします
お申し込みのタイミングによっては、書籍到着までしばらくお待ちくださるようお願い申し上げます
掛川の少林寺 (井上貫道老師の寺院) 様では取り扱いがありません
井上義衍老師『十牛の図提唱』のDVDが発刊されました
このDVDのご注文は、
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からお願いいたします。
井上義衍老師の音声データのみで、提唱中の映像のDVDではありません
3枚組 10,000円(十牛の図提唱のテープ8本分収録)
『十牛図』は中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵師遠禅師(かくあんしおんぜんじ)によるものが有名
廓庵師遠禅師は、大随元静禅師(1065~1135)の法嗣で、六祖・大鑑慧能禅師より第十七代目 の法孫である
『十牛図』は臨済宗ではよく提唱されるが、曹洞宗の師家が提唱することはほとんど聞かない
廓庵禅師は、十牛に分けているが、大乗仏教や禅は本来「頓悟」であって、漸悟ではない
なのに悟りに「段階」があるのか? ないとしたら、なぜ十牛なのか?
500年に一人と言われる井上義衍老師「十牛の図」は今まで未発表の傑作
このDVDと、井上哲玄老師のDVD(前半・後半合わせて5,000円)のご注文は、
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昔は線香一本を立ててそれが燃え尽きる時間を坐禅1回の時間としました。
曹洞宗では、坐禅1回を40分としています。線香1本の長さの時間ということで
それを1炷(ちゅう)と名付けています。
従いまして、坐禅3炷の坐禅会というと、40分×3だけ坐禅をするということになります。
ただし、間に経行(きんひん)という歩行禅、抽解という東司(とうす=トイレ)時間を取り入れています。専門僧堂のようなところでは修行者の数も多いので、経行10分、抽解10分としています。
従いまして、坐禅40分⇒経行10分⇒抽解10分 合わせてちょうど1時間になりますので、
◯時20分から坐禅を始めますと、いつも◯+1時に坐禅が終わるので管理上は便利です。
禅堂に時報を鳴らす時計がありますと、坐禅の終了の合図に使えるので管理上大変便利です。
(あくまでも運営側の話です)
ただ、お寺が大きくない、市街地の貸し会場や一般住宅を坐禅会場として使用する場合は、経行を10分もできません(人と人がくっつき過ぎるので)
なので、経行5分、抽解5分にすれば良いと思います。
もう一つ経行5分、抽解5分にするメリットは、特に抽解5分だと東司(とうす=便所)に行く時間しかないので、その間に参禅者が不要な会話をすることもないので、おすすめです。
40分+5分+5分=合計50分になりますが、今はスマホなどでそれが簡単に計測できます。
坐禅アプリなども出ているのでそれを活用すれば良いです。
坐禅アプリの中には、鐘の音を鳴らすのもあるので、一般住宅などで坐禅会をする場合、お寺のような鳴らしものがなくても、それに近い音を出すことが可能です。
自分の修行(坐禅)が独りよがりになっていないか、老師から聞いた話に自分で解釈をいれて別のものに変えて受け取っていないか、そもそも正しく話を聞けているのか、自分の坐禅が本当の坐禅になっているのか、それをチェックしてもらうのが独参です。
ハッキリした人(悟った人)でないと考え方に陥っている人の誤りを指摘することができません。
1人の参禅者が老師に独参に行き、それが終われば次の1人が老師に独参に行くわけですが、これを効率よくやるにはちょっとしたノウハウが必要です。
専門僧堂では、独参は独参場という一室にそこに到着したものから順に正座をして並び、これから独参に行く人が鐘を鳴らしてから老師のところに独参に行き、それを順番に行います。
しかしながら、井上義衍老師系統の場合は、1人に対する独参時間が結構長いので、そのようにしていると列の最後の方に来た人は、ずっとそこで何時間も過ごすことになります。
それでも良いと言えば良いのですが、ベターな方法があります。
それは、自分の独参になったらだれかに独参に行くように呼び出してもらうということです。
主催者がやると主催者は坐禅できなくなるので、それを各自に分担してもらうことで効率よくする方法があります。
独参に行きたくない人は別に強制されません。
受付時に、独参に行くか行かないかを選んでもらい、行く人に独参札を渡します。それには独参番号が書いてあります。それを自分の単の横に置いて坐禅をします。
番号順に独参に行きます。1番の人は独参が終わったら部屋から退出したらすぐに2番の人を呼び出します。もちろんそれが坐禅時間中であってもある程度の大きな声で、
「独参2番の方、どうぞ」
というように呼び出します。
それを繰り返します。
こうすることによって、主催者が独参者を次から次へと呼び出すという負担がなくなります。
まだこれから加筆していきます。
坐禅会がお昼をまたがって行われる場合は、食事のことを考える必要があります。
一番良いのは、昼食と飲み物を各自持参してもらうことです。
食事のゴミやペットボトル・缶も持ち帰ってもらうようにした方が良いです。
講師への謝礼、講師食事代・飲み物代、講師往復の交通費、講師宿泊費、坐禅会の会場費、主催に要する経費(道具、場合によっては坐禅用坐蒲(坐禅用の丸いクッションなど)、主催者・世話役の駐車場代)、講師の帰りの食事代などを参禅者数の予測などから赤字にならないように会費を設定します。
特に会場が講師の居所から遠方の場合は、交通費の割合が大きくなり、それが、坐禅会費に反映されます。
なお、老師が2023年で数え年91歳という高齢ですので同行者が必要です。その方の交通費・宿泊費も必要となります。
エクセルを扱える人は、収入と経費を項目別に入れて収支計算できるようにしておけば、何人の参加者で黒字か赤字かの目処が立ちます。赤字ならば会費を上げざるを得ません。
もし、前日、翌日に近くの別の会場で坐禅会が行われる時は、その主催者と交通費負担の相談をすれば、講師交通費という経費が少なくて済むので、場合によっては、会費を安く設定できます。
あるいは遠距離の場合、全国の老師参禅者から寄付を募ることも考えます。
たとえば北海道で坐禅会を開きたいということで、全国の参禅者に北海道坐禅会開催のための寄付を募ります。純粋な寄付でもいいのですが、クラウドファンディングで言う「購入型」のように「返礼(リターン)」を用意します。たとえば老師に揮毫をお願いし、寄付の方にそれをプレゼントすると寄付が集まりやすくなります。今の時代はネットがあるので全国から寄付を募りやすいです。
最寄り駅と会場間の送迎をする必要があります。主催者が出来ない場合がほとんどだと思うので、あらかじめ送迎をだれかに頼んでおきます。
(老師は2023年現在で数え年91歳のご高齢ですので1人随行されます)
その前に講師の到着時間、出発時間などをメールなどで教えてもらっておく必要があります。
できれば誰かに頼んでおきます。
受付用紙はファイルを作り同じものを最低2枚印刷して用いると便利です