このページ一部更新しました 追記した部分があります(2018/7/30 & 2019/5/21)
「舌、上の腭(あぎと)にかけて」の部分の解剖学的意味を加筆しました 道元禅師の知識の深さが分かります(2015/5/31)
<坐禅作法>
このページはこのサイトの管理人の一人の今までの経験や見聞を基に、坐禅作法の個人的なメモとしてまとめたものを転載したものです 参考としてご覧ください 役に立つところも少しはあると思います
坐禅会や摂心に参加される方は、坐禅のマナーとして、以下のようなことはあらかじめ覚えてきてくださると良いですので、よろしくお願いします
坐禅作法⇒ https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop/saho
このページ大変多くの内容があります。丁寧に書いているつもりです。
じっくりとお読みいただけましたら幸いです。
坐禅をするのに、六感を解放して、
※六感とは、眼耳鼻舌身意
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井上義衍老師 いのうえぎえんろうし とは、釈尊つまりお釈迦様と同じ悟り体験をし、明治から昭和に生きて、仏教を復興させたと言われ、尊敬される僧侶です その系統が今でも引き嗣がれ、釈尊と同じ悟りを体験する人が、僧侶にも在家の男女にも輩出しています ほぼ消えかかっていた仏道の命脈が復興したのです
作法については、このページに書いています。
真の仏道を修行するには、厳しいお寺や専門僧堂に行く必要はありません
(これは根拠のない発言ではございません 一応、恥ずかしながら、小僧生活を8ヶ月、道場(専門僧堂)での修行を9年間、国内遍参を1年間した人間として言っております 厳しい修行もやりましたし、寝ずの修行(平均睡眠2時間台)も何年も何年もやりました、落ちたら死ぬような所で坐禅をしたこともありますが、それらはまったく不要です 20年間テレビも見ないし、新聞もほぼ見ないし、独身でした もっと言えば、19年間肉も魚も食べないVegetarianでした その間に見た映画は2本だけで、1本は宗教映画、もう一つはファイター系の映画でした その間、暖房器具も冷房器具も使ったことがありません 俗服は一度も来ませんでしたし、どんなに寒くても帽子もかぶったことがなかったです あまり意識はなかったですが、いわゆる煩悩を断って、禁欲生活をしていました 摂心は何十回やったか分かりません ちなみに、年に6回摂心のある道場でも、役割が半年交代で回ってくるので、一年で摂心に専念できるのは3回になります すると、60回やろうと思えば、通常の専門僧堂では、20年いないといけません 年に10回から12回の摂心をするところわずかに2,3の道場があります 小衲は7日間の摂心を60回以上やっています 5日間の摂心を含めれば80回くらいですか しかし…それらは本当の修行とは関係のないことでした 今ならハッキリ断言できます
重要なのは、正師について、正しい修行をすることです それだけです 坐禅をしないといけませんが、坐禅の時間は関係がありません 摂心の回数なんてものはどうでもよろしいです
在家のまま修行することのほうが良いです 出家しても、思うような修行ができない場合が多いです お坊さんでもどんなに長い厳しい修行をしている人でも、ほとんど全員(たぶん99.9%)居眠り坐禅をしています
瞑想中・座禅中に眠くなる人が大変多い(修行僧もベテランも)理由とは
それが実情です 本物の師家に出会わないからです だから在家から得度してお坊さんになっても、何年か経つと、お坊さんの格好をしていていますが、途中で本来の目的を諦めるのです その人に責任はなく、正師に出会わないからです なので、どうしても出家したい方は見性してからが良いと思います お寺の後継ぎになるために修行している方にも立派な方がいます)
悟りに至る坐禅の方法や坐禅体験談について、基本的なことから急いで知りたい方は
その後は、すぐに悟りを体現している方々について参禅をしてくださいませ
今までお世話になったから、人格が立派な方だから、その指導者を離れることはできないーそういう気持ちは分かりますが、正師でないなら、お礼を告げて、その指導者からきっぱり去ることです
作法については、このページに書いています。
禅堂に入るときには、
禅堂を左足から入って、
左端で、一歩進み、そこで、聖僧様(しょうそうさま=文殊菩薩)に低頭(ていず=合掌してお辞儀をすること)してから、
右回りに自分の単(たん=坐禅する場所)まで進みます
注意点:禅堂の真ん中におわします聖僧様の真正面で低頭しないこと;必ず左端でします
真正面でできるのは住職・堂頭老師のみです
禅堂に入る前のお辞儀(低頭)などは不要です 入って一歩進んでから低頭します
禅堂(外単は含みません)から退出する場合は低頭(ていず)は不要です
臨済宗では、禅堂から退出する場合(内単から外単に出る場合)は、一旦振り返って低頭(臨済では「ていとう」と読みます)合掌します
臨済宗の影響を受けた曹洞宗の禅堂では、同じように禅堂から出る場合に、一旦振り返って低頭する場合もありますから、そこの道場のやり方に習います。
細かいことを言えば、曹洞宗では前門から出入りをしています。その証拠に出入り口から聖僧様が見えます。
臨済宗では後門から出入りしています。聖僧様のところは背面しか見えません。
臨済宗では、前門を使えるのは師家と、大衆は独参に行き帰りする時、朝課晩課に行き帰りする時、食事に行き帰りする時だけになります。
注意点:聖僧様の前や堂頭老師の単の前を横切って、自分の単に進むことはできません
これは大原則です
遠回りしてでも聖僧様の後ろを通って、時計回りに歩んで自分の単まで行きます
例外として、経行(きんひん)中は、聖僧様の前も横切って構いません
曹洞宗の多くの禅堂は、上記写真(2列の禅堂)と異なり、四方単ですので、入り組んでいます
その場合は、左に回ることもあります
【注 意】
僧堂(禅堂)、
東司(とうす、手洗い)、
浴司(よくす、風呂)は三黙道場と言って、
話をしてはならない場所です[指導者の法話ややむを得ない業務連絡などは除きます]
手洗いや風呂場はついつい気が緩むところですので、気をつけるように言われています
曹洞宗の坐禅は面壁と言って、壁に向かって座禅するイメージがありますが、修行僧は、1畳の畳の端に丸い坐蒲を置いて坐禅するので、壁に向かってということではありません
目の前は1m50cmくらい視界が開けています
つまり、畳に視線が落ちるということです。
ところで、
坐禅は必ず眼を開けてします
ヨーガですら実は目を開けます。ヨガが西洋人に広まり、資格業務となって以来、今のヨガインストラクターは眼をつむる人が多いですが、瞑想の時に眼を閉じると書いてあるヨガの文献はありません ありましたら、教えて下さい
禅定に入っているヨーギは必ず眼を開いています
目は開くことが瞑想にしても坐禅にしても必須条件です 英人ポールブラントン氏の『秘められたインド―賢者たちとの出会いの記録』という本で、彼がインド中の瞑想家を尋ねて回って手記を書いていますが、瞑想家は皆目を開いていることが分かります。
さて、ヨーガですが、
身体の調整をするハタヨーガ(アーサナー、プラナヤーマ)から始まって、瞑想の集中(ダーラナ―)・禅定(ディヤーナ)・三昧(サマーディ)がヨーガの最終段階です(すべてで8段階あるのでこれを総合してアシュタンガヨーガ(八肢のヨーガ)と言います)
釈尊も王位を捨てて出家直後に二人の仙人(ヨーガ行者)に会って、ヨーガの瞑想を習い、一人目の仙人のところでは無所有処定という禅定、二人目の仙人のところでは非想非非想処定という禅定を、どちらも極めて短期間に習得していますが、それでは悟りを得られなかったのでさらなる修行に進んでいます
ヨガ教師は昔は数が少なかったのですが、19世紀の終わり頃から、東洋思想に興味を抱いた西洋人(まずは、イギリス人、ついでアメリカ人)がインドに行くようになって以来、世間でヨガの関心が高まりました
瞑想=meditation はキリスト教徒である英米人の黙想(=meditation もくそう)が眼を閉じて行うため、英米人が瞑想をするときには眼を閉じるようになったのでしょうか
今では、欧米でも、日本でも、ハタヨーガの部分だけが、ダイエットと関連させて、ヨガインストラクター免許を出す商売が横行するようになりました
おそらく、全員眼を閉じていると、なんちゃってヨガ指導者でも生徒をごまかせる(生徒も閉じているので自分(教師)が生徒に見られなくて済むから)ので、眼を閉じる人が多くなっているのだと思われます これがヨーガでは間違って瞑想中に目を閉じる2つ目の原因だと思われます
【曹洞宗の面壁について】
曹洞宗だからと言って、壁ギリギリで坐禅なんかしたりしません
マスコミが、曹洞宗の禅堂の取材に行くと、1畳の畳の広さはない狭い外単にしかカメラを入れられず、そこでは壁が近いので、その写真を見ていると、曹洞宗の僧侶は、あたかも壁に向かっているというイメージが定着してしまっただけです
(外単は初心者やまだ入門を許されていない人などが坐る簡易の坐禅位置なので、目の前 が狭いのです 僧堂の中の正式の単に坐ると(長連単ちょうれんたん)目の前は広々としています)ちょうど、縦長のたたみ一畳の端っこに布団を置いて坐禅をしているのです たたみの向こうはカンキという物入れの蓋が見えていますが、視線を45度斜め下にした場合、目の前は畳になります
従って、坐禅中は畳が眼前にあります
なので、我々が自宅などで坐禅する場合は、できれば壁から1m50は空けたところに坐るといいです 45°に落とした視線は畳の上に落ちるはずです
本式の禅堂で坐禅することがあれば、遠慮なく長連単 (ちょうれんたん:畳一畳分が縦になっている単 長連牀ちょうれんしょう とも言います) に坐ってみましょう
師家・老師は大衆とは違って面壁ではなく、こちら(通路側)に向かって坐禅します
(老師自身が面壁することもあります)
【曹洞宗の面壁について】
マスコミが、曹洞宗の禅堂の取材に行くと、1畳の畳の広さはない狭い外単にしかカメラを入れられず、そこでは壁が近いので、その写真を見ていると、曹洞宗の僧侶は、あたかも壁に向かっているというイメージが定着してしまっただけです
(外単は初心者やまだ入門を許されていない人などが坐る簡易の坐禅位置なので、目の前 が狭いのです 僧堂の中の正式の単に坐ると(長連単ちょうれんたん)目の前は広々としています)ちょうど、縦長のたたみ一畳の端っこに布団を置いて坐禅をしているのです たたみの向こうはカンキという物入れの蓋が見えていますが、視線を45度斜め下にした場合、目の前は畳になります
従って、坐禅中は畳が眼前にあります
なので、我々が自宅などで坐禅する場合は、できれば壁から1m50は空けたところに坐るといいです 45°に落とした視線は畳の上に落ちるはずです
本式の禅堂で坐禅することがあれば、遠慮なく長連単 (ちょうれんたん:畳一畳分が縦になっている単) に坐ってみましょう
臨済宗は明治時代から、つまり白隠禅師の法孫たちから、全員通路側を向いて坐禅するようになりました(江戸時代の盤珪禅師や白隠禅師はまだ面壁で指導されていました)が、白隠禅師自身は面壁でしたし、それ以前は臨済宗も面壁でした 達磨大師からずっと面壁だったのです
それは無着道忠の「小叢林清規」(しょうそうりんしんぎ)に明らかです
面壁するのを、向上門(まだ修行中の者の坐り方)、面壁と反対にこちら側を向くのを向下門(すでに悟りを開いた仏の坐り方)とされます
しかしながら、坐禅に本来どこを向いて坐るというようなことはありませんね
坐禅は目を開いてしますので、壁に近づきすぎると窮屈ってことはあります
曹洞宗でも目の前は1メートル半くらいは空けて坐禅するのが本当です
臨済宗でも、専門道場の単に坐ると対面の人は視界に入りません たたきの床が目の前にあるだけです
一般寺院で、対座をすると近すぎるので目の前の人が視野に入ってしまいますね
「臨済宗は対座なんだ」と主張しているのはいいですが、自分は警策を回していて、実際に坐禅をしないので、どんな風か気づいていないのです
眼の前の人が坐禅中に視界に入っていたら、気になるでしょう
臨済宗に禅定家が少ないと昔から言われるのは、対座にこだわるからかもしれません
また公案を知っていても、坐禅の仕方を知らずに道場を出るからかも知れません
臨済宗でも早く面壁に戻してもらいたいものです 臨済宗から近年とんと見性する人が少なくなったことと関係があるような気がします
面壁は江戸時代に中国から来た明(みん)の僧(黄檗宗)の影響であることが分かっています。
坐禅の方法については、
『普勧坐禅儀』に道元禅師が懇切丁寧に教えられています
(井上義衍老師の『普勧坐禅儀提唱』が出版されていますので推奨しますが、独学せずに、かならず今生きておられる正師の提唱を聞き、独参し、分からない点は遠慮なく質問すること、自分の坐禅を点検してもらうことを切にお願い申し上げます
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)は中国から帰国したばかりの道元禅師が、「中国にも日本にも坐禅の仕方を説いた著述がない」のを嘆いて、だれでもこのようにすれば坐禅できますよというタイトルをつけて京都にて著されたものです。
「一番大切なことはあなたがどのようにして坐禅しているのかということです」―井上哲秀老師 (平成26年12月浜松龍泉寺・臘八大摂心の初日の提唱から)
【坐禅の道具】
まず座布団を置いてその上に座蒲(丸い円座の布団のこと)
を置く
(長年の智恵ですので、その通りにするのが良いです 座布団と坐蒲の組み合わせで、長時間の坐禅が可能となります
畳の上に坐蒲を置くのではなくて、大きい四角い座布団の上に丸い座蒲を置くのが良い理由:①膝が冷えない ②膝を座布団が大きい面積で受け止めるので、膝を傷めない ③身体がすべらない[畳の上に直接膝があると坐禅中に滑ってきて態勢が壊れるのでそのことに意識が行ってしまいます]
下の座布団に両膝が収まるような大きめの座布団が必要です 一般家庭にある座布団では膝がはみ出て滑る原因になるので、大きい座布団がない場合は、2枚を横並びに置いて、その真中に丸い坐蒲を置けば、膝がはみ出ません
あるいは、自宅坐禅の場合はヨガマットを2枚折りにするなり、キャンプ用のマットを使うなりすれば、大きめの座布団の代わりになります
専用のものを用意するのなら、中肉中背の男性の場合、座蒲も置けて膝がはみでないためには、少なくとも横800mm×縦740mm くらいの布団が必要になります こういう長座布団の上に、座蒲(円座)を置いて座禅します 市販のものは、幅が長すぎ、縦がやや短いものが多いですが、オーダーメイドよりは安く入手でき、なんとか使えます
布団ではありませんが、クッション性のある(段々状のい草面の中にプラスチックの細かい粒(枕に入ってるようなもの)が入れてあります)「い草マット」もおすすめです 縦に半分に切って、使うとすべりません 一枚で二人分取れることになります 第一い草の良い匂いがおすすめです)
このい草マット 気に入って2年後にもう一枚購入してしまいました
ごろ寝にもいいですよ
この坐禅用座布と座布団については、下の項目で再度詳しく述べています
坐り方は結跏趺坐か半跏趺坐
けっしてあぐらにしないことが重要です 最初から楽をしていてはいつまで経っても半跏趺坐(はんかふざ)すらできません
接心(摂心会)などで横に坐ってくる初心の人にはあぐらの人が多いですが、最低半跏趺坐にされたほうが良いです
あぐらは結局長持ちしないので、半跏趺坐や結跏趺坐にするほうが良いのです
経験からしても結跏趺坐(けっかふざ)が一番長時間安定して楽に座れる姿勢だから 結跏趺坐が無理なら半跏趺坐(はんかふざ)から慣らしていくのが良いです
関節の硬い人や年齢を重ねた人は結跏趺坐が無理の場合も多いです
専門道場の雲水さん(修行僧)たちは、結跏趺坐を先輩から強制されますので、だれでも結跏趺坐ができるようになります ある意味幸せですね
ヨガでも蓮華座(パドマーサナ=結跏趺坐)が一番とされています
大切なことは、両膝とお尻の3点がしっかり接地していて、その3点で身体を支えるようになっていることです
片膝が浮いている場合は、左右を逆に組むか、浮いている膝の下に、ものをかませます
身体が柔らかくなると、かませる必要もなくなってきます
脚が不自由で結跏趺坐も半跏趺坐も出来ない場合は、日本座(正座)をしてお尻の下に円座を使うのが良いです
それもでも脚を怪我しているとか、超高齢で、結跏趺坐も半跏趺坐も厳しい場合は、椅子に腰掛けて坐禅ができます
背もたれにもたれかからないことです その時、腰の沈む椅子は良くありません 小学校にあるような座面が沈んでいないフラットなもので、しかも堅いのが良いです その上に薄い座布団を置いて少し浅めに腰掛けます
ただ、椅子坐禅は冬期はとても寒いので、脚を覆うようにしたほうが良いです 脚からスッポリ履けるようなものです 通じていますか? 椅子に腰掛ける場合は、安い寝袋を履いて坐禅するがベストかもしれません
暖かいといえば、結跏趺坐に勝るものはありません
摂心に行くと、一日中坐禅を組んでいることもあって,3日目当たりまでは脚が痛いのですが、あとは楽です 身体が適応するのでしょう なので、摂心も途中参加や途中で帰らずできるだけフル日程で参加するほうが良いです楽です)
結跏趺坐や半跏趺坐が長時間できるためには、服装も関係してきます
服装ですが、きついパンツを履いていると結跏も半跏もできませんので、ゆったりとした服装をすることが必要です
スキニーなパンツも良さそうですが、膝を折り曲げた時に、膝に挟まれたところに生地がある分、長時間の坐禅にはまったく不適ですので注意して下さい
在家の人の坐禅の服装としては、着物袴が無理な場合は、作務衣やジャージやユニ○○の暖パンなどがおすすめです
但し、生地によっては組んだ組んだ脚と脚とが滑ってしまうものもあるので、注意が必要です 化繊なら必ず滑るというものでもありません
滑る場合は、タオルやハンカチなどを腿と足の甲の間にかませると止まる場合もあります
自室で座禅する時には色などは構いませんが、お寺などの坐禅会で他の人と一緒に坐るときには、派手でない黒や紺色の着衣が推奨されます たとえば黄色の服装だと隣の人が、目がチカチカするようなことがあります
ベルトは緩めるのが良いがきちんとした服装で坐禅すること
靴下・足袋は脱ぎ、時計を外します 禅堂で坐禅する場合は、時計やスマートフォン・携帯は持ち込んではいけません 坐禅の時間は係の人が計測して始まりや終わりの合図をしてくれます
出家は坐禅中は袈裟をかけた盛装です(臨済宗では袈裟をかけず絡子です)
在家の正装は、羽織・着物に袴です 袴は乗馬型(2つに分かれたもの)ではなくて行灯型(スカート型)が脚を組む際にいいです
在家得度した方は、絡子をかけます(東司(とうす=便所)では外します)
暁天坐禅の終わりに唱える「搭袈裟偈たっけさのげ」の時に在家の人も絡子を頭に置いて「だいさい げだっぷく むそうふくでんえー。。。」とやります
「搭袈裟偈たっけさのげ」は臨済宗では読みません 上で言いましたように、臨済宗の僧侶は坐禅中に袈裟を掛けないからです
「人間の見解じゃないんです。実物は。
「ああ、事実って、分かっているよ、考え方ではない事実でしょっ!
って、みなさん思っているでしょう?
でも皆さん本当に『事実』って分かっていますか?
もし、事実を知っていたら、手応えがあるはずですよ。
でも皆さんの言う事実は手応えがないでしょう?
それは事実ではないからです」ー井上哲秀老師
井上哲秀老師とは、龍泉寺の現在の師家(修行の指導者)です
「『自己を忘じる』なんてことは忘れたほうがいいです。
自己を忘じる体験は皆さんが想像しているようなこととはまったく違いますよ。
自分の経験でもそうでした。
自分が想像していることとは違いました。
たしかに一度自己を忘じることは必要です。
でも、今は自己を忘じることは忘れて下さい」ー井上哲秀老師 (平成27年5月浜松龍泉寺・摂心の提唱から)
坐禅が終わったら、急に立ち上がってはいけません
ゆっくりゆっりと最初は小さく徐々に大きく左右に身体を動かし、
次に前後にゆっくり動かしてから、
ゆっくり立ち上がります
決して慌てて立つ必要はありません
坐禅に慣れて脚が痛くなくなったからといって、急に立ち上がる、素早く立ち上がるのはいけません 立ち上がるときに膝を痛めたり、一過性の貧血になったり、頭位性眩暈(めまい)様の現象などが起こり身体が不調になってしまう場合もあります
井上哲秀老師を見ていますと、とてもゆっくり丁寧に左右揺身をされています
坐禅の始まりにも終わりにも左右揺身をします
一人で坐禅するよりは、熱心な修行仲間と一緒に坐禅するほうがやりやすいです
これを大衆の威神力(だいしゅのいじんりき)と言います
今の若者が、家で受験勉強するより、喫茶店・カフェで勉強するほうが捗るのと同じです
なので、お寺に行ったり、坐禅会に行ったりします
老師のように禅定力のある人の近くで坐禅できれば一番よいです
涼しい地方は別として、真夏には暑さ好きでもなければ坐禅しにくい人が多いようです 道場では真夏は行脚に充てています
真冬に自宅で坐禅するのにも、ストーブをつけると酸素不足になるので、ボーッとしてしまうリスクがありますので、暖房をつけるより、暖房は消して、厚着をして坐禅するのが良いです エアコンは空気は汚れませんが、乾燥をするので身体には良くありません
厚着は重くなると良くないので、ダウンの素材が軽く肩が重くないです
寒い地方にある永平寺などでは、テレビにはうつりませんが、大きな禅堂に囲炉裏が切ってあって、軽く暖房をしています
・坐禅をすると脚が痛い
・坐禅をすると眠い 眼が開けていられない
・坐禅をすると思考が湧いて困る
だれしも経験するものです
昔から熱心な修行僧は眠さを除くために相当苦労しています
瞑想中・座禅中に眠くなる人が大変多い(修行僧もベテランも)理由とは
脚が慣れてくると、居眠り座禅に移行する人がもの凄く多いです
眠い時は坐禅をしない
一日の仕事を終えて坐禅をしようとすると、それまで動きっぱなしだったこともあり、坐禅を組むと急に眠くなる場合があります
その場合は、すぐに坐禅を中断しなければいけません
そのまま続行すると見事に居眠り坐禅が習慣になります
その場合、長くても15分ほど仮眠して睡魔を除く 仮眠5分でスッキリする人は短いほうが良いです
坐禅会に行く前に、喫茶店などで座ったまま腹圧をかけて軽く寝る
とすっきりと坐禅ができます
睡眠研究家の間では、こういうような短時間とってスッキリさせる睡眠のことをパワーナップと呼んでいます。
仮眠も15分以上寝たり、一時間以上寝たりするとかえってよくないです。体験からもそう言えます。
なぜなら、ノンレム睡眠に入ってしまうからです。
最近の研究では、レム睡眠が疲労を取る効果があると判明しています。15分の仮眠だと、レム睡眠で疲労が取れて、シャキッとなれるからです。
WBCに選ばれるような一流のプロ野球選手はみな仮眠をします。スポーツ選手だって、眠気があると身体が自由に動かないのです。
ある企業では、昼休みに仮眠をすすめています。成果を上げる社員はちゃんと仮眠をしますが、成果を上げない社員は、その仮眠時間を使ってスマホゲームをしているそうです。後者の社員は、結局午後の仕事中になんとなく眠くなり、効率が落ちるのです。やる気も出てこないのだそうです。
禅を組んだままで仮眠をすると、坐禅=睡眠 という条件反射が形成されるので怖いです
食事の直後はすぐには坐禅せずに、しばらく休みます
(釈尊の教団は、昼食後はしばらく横になっていたようです)
坐禅で眼を開いておられないのは、眠い証拠 睡眠が不足しているということです
(前日に睡眠不足にならないように生活を整える 夜更かしをしない、無意味なネットサーフィンをしない 寝る直前まで人とおしゃべりをしない 口を開けて眠らない)
睡眠時間3時間や4時間では、坐禅をするには睡眠不足です
ただ、遺伝的に、睡眠3時間で済ませられる人がいます。
また、井上貫道老師が子供の時、井上義衍老師のお寺にたくさんの修行僧が全国から集ってきましたが、お坊さんたちが、横になって眠っているのを見たことがなかったと仰っていますが、坐禅の力が本当についてくると、横にならずに(よって寝具の布団を敷きません)ちょこっと坐睡するだけで、過ごせたようです。
⇒ 現代の日本に夜中も眠らず坐禅できる人たちがいる を読む
坐禅を終わって、あくびが出るのは、眠いながら坐禅をしていたということです
長年居眠り坐禅をしている人は、自分が坐禅中に眠っていることすら自覚していません
(自戒の弁 若い頃、睡眠時間を大幅に削って、坐禅修行をしていたら、気づかないうちに坐禅中にいねむりをするようになりました 日中の仕事中にもすごく眠たかったくらいですから、坐禅中に眠るのは当然です 居眠り坐禅から脱却するのは大変でした)
坐禅の直前に砂糖を摂らない 砂糖入りのコーヒーを飲んでも眠気覚ましにはなりません
眠気覚ましのドリンクはブラックコーヒーや
濃いめの緑茶 抹茶入り伊右衛門 ←これは粉末なので溶かすだけ、水でも溶けるので便利です
チオビタドリンク 100ml (コンビニの3分の1の値段です 他の栄養ドリンクと違って坐禅用・眠気覚ましにはとても効果的です 坐禅をしている医師のおすすめです)
これらが不要になるのが一番良いです
また、頭を使いすぎたり、考え事が多いと眠い坐禅になります
坐禅ができるようになると眠たくなくなるようですから、睡眠時間を十分取っているのに、坐禅すると眠いという場合、坐禅の仕方を誤っているかもしれません
坐禅の仕方を誤っているから、あるいは、本当に坐禅の仕方を知らないから、眠いのか、睡眠不足で坐禅中に眠くなるからかを見分ける方法があります。
それはですね。
(A) 坐禅の前から眠い(あくびが出たりする)⇒坐禅中も眠い
(B) 坐禅する前は眠くない⇒坐禅を始めると眠い
(A)か(B)のどちらかです。
もし、(B)の 坐禅する前は眠くないのに、坐禅を始めると眠い
のであれば、明らかに、坐禅が眠気の原因となっていると言えます。
だって、坐禅する前は眠くないのに、坐禅を始めると眠いのですから、坐禅中に眠さを惹き起こすようなことを自分自らしているということです。
キツイ言い方をすれば、坐禅中に眠くなるのは、
坐禅になっていないから、
坐禅の方法を大きく間違っているから
と言えます。
つまり、坐禅の仕方を全然知らない(何年坐禅していようが、何年正師についていようが関係ないです) と言えます。
坐禅の方法を全く勘違いしているからです。
井上義衍老師についていても、ずっと居眠り坐禅をしていた僧侶がいます。
十年もです。それは、老師の話を聞いているようでいて、少しも聞いていなかったということです。
坐禅の仕方を学ばなかったということです。
坐禅をしようとすると、何か意図的に始めているから、脳(身体かもしれませんが)がそれに対抗して眠ろうとするのです。
「坐禅とは何もしないこと」と教わっているのに、何かをしようとしているから、眠さがやってくるのです。
あるいは、想念が起こらないように心がけているものだから、ものすごい摩擦が起きて、エネルギーを消耗して、眠くなるのです。
心配しなくても大丈夫ですが、というのは変な言い方ですが、正師(しょうし)とご縁のない人は、どんなに長く修行している修行僧であろうが、和尚であろうが、どんなに参禅歴の長い居士(こじ=在家の修行者)さんであろうが、坐禅中に眠っていない人をまず見たことがないほど、皆さん、坐禅中に居眠をされています。
それほど、坐禅の仕方がないがしろにされています。
意外に、専門の修行僧でも、師家に坐禅の仕方を教わらないからです。逆に、「どうしたら坐禅になりますか?」というような質問を全然しないからです。
だから、そういう方々は、一週間の摂心をやり終えるのは平気な「ベテラン」ですが、何年修行しても、坐禅をしていないのですから、「悟りなんてこの現代では無理はことだな」と諦めてしまうのです。
でも、それでも坐禅会に出続ける人が多いのです。
何年坐禅しようが悟れないのは当たり前ですね。
我々がそうならないように、気をつけるべきです。
なので、正師につくこと、それだけでなく、正師に独参すること、質問することが極めて重要になります。
おすすめの記事⇒ 坐禅中・瞑想中に眠くならない方法
「坐禅中にどうしても思いにふけってしまいます
次から次へといろんな思考が出てきて、
一時も休まることがありません、
どうしたら良いのでしょうか?
と半ば泣きつくようにして
独参に来られる人がいますが、
実は、骨盤をちゃんと立てて正しい座相をしていれば、
そんなに、思念に悩まされることはないものなんです
形にとらわれてはいかないというのは本当ですが、
しかし、坐禅の時の姿勢は重要です」
― 井上哲秀老師
*****************************************
姿勢は自分ではまっすぐにしているつもりでも、そうはなっていない場合が多いです
古参(こさん=古株)になれば、それこそ誰も注意してくれません
なので、謙虚に仲間にみてもらうのがいいです
もしくは、一炷の間、ビデオカメラやスマホの動画に撮って、自分で見てみるとよいと思います ustream のアカウントを取れば、スマホで撮影したものをそのままアップロードできますので、あとで確認が容易にできます(スマホのスタンドが要ります ある程度の距離から撮影したほうが自分の姿勢が分かりやすいです)
年輩の方には背中が丸い人、骨盤が立っていない人が多いです
普段頭をよく使う人、事務仕事をしている人は前傾姿勢が多いです
(スマホばかり見ていると、頚椎の正常な前彎がなくなりストレートネックになります)
考え事をするときは、そのような姿勢ですし、眠るときはその姿勢があります
従いまして、考え事をついついしてしまわないためにも、坐禅していて眠くならないために姿勢を正すことが大切です
Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。
何が違うのかよく分かりません。
A.(井上哲玄老師)
「自分を眺める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。
自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。
そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。
本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。
哲玄老師曰く
●少しでも我流が入ると坐禅になりません
●何かこれはという体験があれば、すぐに独参に行き、師家に話すのがいいです
これはという体験がなくても、独参に行ってください
●「坐禅中はいいんですが、日常の工夫ができないのです」というのは
そもそも、それ坐禅になっていない ということです
●「この状況(境地)を維持する」なんてことはできません
(今の自分の様子は時々刻々と変化しているから)
坐禅時間は長い線香を燃やして測ります(今でも道場ではそうしています)
自分で坐禅をするのに、時計やタイマーでない、坐禅時間を計れる便利なアプリがありますので、紹介します
それが「雲堂」(禅堂のこと)アプリです iPhone用にも同じ名前のがあります
このアプリでは線香が燃えてだんだん短くなります
坐禅時間の長さや鐘の音色を変更できます デフォでは磬子の音なので坐禅鐘の音に変えて下さい
スマホでこのアプリ「雲堂」を使う時は、横(視界外)において座禅するのですから、メールやSNSの受信音が入らないように、
設定⇒無線とネットワーク⇒機内モード
にしましょう 電話もメールも入りませんが、スマホの諸機能だけ使える状態となります
あるいは、どうしても電話を切れない場合は、メールやSNSだけが通知されないように、
設定⇒アカウントと同期 で 自動同期 をOFFにしましょう 坐禅終了後自動同期をONにすれば、その途端メールが一斉に入ってきますのでご心配なく
曹洞宗では一回の坐禅時間を1炷(いっちゅう)と言いますが、1回40分です
坐禅と坐禅の間は経行(きんひん=歩行禅)をします
その後、すこしばかりの抽解があります
臨済宗では、1炷(いっしゅ)は25分で、それを2炷セット(1炷と1炷の間は脚を組みかえるだけのインターバル5分、2炷ごとに約10分の抽解(東司[手洗い]などに行くだけ))で繰り返します
一日中坐禅修行を行なう攝心会・接心(せっしん)では、
朝の4時過ぎから、
この40分を一日11~12炷(11回か12回)くらい繰り返し、
それを7日間(5日間)します。
(食事は一日3回 食事の後は少し長めに休息します)
熱心な人は、開枕後(午後9時くらい)、さらに、夜坐(やざ)と言って、自由な場所で好きなだけ坐禅をします
朝の振鈴(大きな音の鈴で起床の合図がある)より、そっと早く起きて、坐禅する人もいます
(勝手に早起きするのですから、人の睡眠の妨げになる目覚ましをかけませんし、洗面などもしません 振鈴(起床係が大きい鈴の音でみんなを起こす)でみんなが起きる時には寝床に帰っていてあとは同じように布団あげや洗面をします)
古人には、夜に寝床に入らず、明け方まで徹宵(てっしょう)する強者もいたようです
今までそういう人を二人だけ見たことあります
修行僧でなくてもそんな人がいます
その人達は、日中でも居眠り坐禅をしていません
昔は、眠くなったらキリで腿を突く人、眠ったら真っ逆さまに井戸に落ちるようなところで坐禅する人など、いらっしゃったそうです(でも本当に眠い時は、落ちたら死ぬような危険なところで坐禅しても眠いのですねぇ)
自宅座禅をする場合は、する場所や部屋と時間を決めておいたほうがいいと思われます
家族のことを気にしすぎて自分の修行を遠慮するのはもったいないです
家族に遠慮してむなしく一生を終わっても良いものでしょうか?
では、坐禅にどういう場所が良いかと言えば、もちろん一室を確保することができれば、ベストですが、ずっとその部屋で坐禅するわけでもないでしょうから、一時的に自分のスペースとして確保できる部屋や片隅などであれば良いと思います。
自分が坐禅していることを知っている理解のある人なら部屋に急に入ってきても問題はないです(すぐに退出してくれますから) ただ家人が座禅に理解がない場合は、その人が急に入ってこないような場所(部屋・区画)を選んだほうがこちらも安心感があって良いと思います 部屋に衝立(ついたて)のようなものを置いて坐禅スペースとすることもできます 浄土真宗の内観法という修行では、和室の隅に衝立を置いて個人だけのスペースを作っています
自分の子供(二人)が遊んでいる部屋で、お母さんが坐禅をして悟りを開いた例があると松本自證師が言われていたことがあります(その女性は松本自證師に参禅されていました)
独身の間の方が、修行に専念できることは言うまでもありませんが、結婚生活をしながら、大法を成就した方が近くにいらっしゃいます(複数人)
我々が自宅などで坐禅する場合は、できれば壁から1m50は空けたところに坐るといいです 45°に落とした視線は畳の上に落ちるはずです
自宅で坐禅するにも道具が重要です
できれば結跏趺坐や半跏趺坐を組んでも左右の膝がはみ出ない大きな四角い座布団を用意し畳や床の上に置き、その上に丸い座蒲(坐布ざふ)と呼ばれる円座を置いて、その上に坐って坐禅をします
(長年の智恵ですので、その通りにするのが良いです 座布団と坐蒲の組み合わせで、長時間の坐禅が可能となります
座布(坐蒲)(丸い方)は自分で作るのは大変です 中身のパンヤを入手するのも難しいので、専門店から購入するほうがかえって安上がりです
円中堂のがおすすめの一つです タップリとパンヤが入っているので、チャックから取り出して少し平たくしてから使います
長期間使ううちにヘタってくるので、そしたらその取り出して保存しておいたパンヤを入れて高さを高く出来ます
材質としては少し高価になりますが、ビロードのがおすすめです。ビロードの肌触りはなんとも言えません。
薄い坐蒲でもいいという人は、アマゾンで滝田商店のにするか、京都の一疋屋 のがあります 後者にはカラフルなもの、可愛い色のものがあります
丸い座布が入手できるまでは、古い座布団を二つ折りにしてお尻の下に敷いて坐禅する方法もありますが、沈んでしまうので、あまり長時間は坐禅できません
丸い坐蒲は昔から修行者が体験上これが良いと使い続けているものなのです
坐禅修行を本格的にしようとするなら座布は一つくらいはあったほうがいいと思います
スポーツでもちょっと真剣にやっている人は自分の道具を持っています
畳の上に坐蒲を置くのではなくて、大きい四角い座布団の上に丸い座蒲を置くのが良い理由:①膝が冷えない ②膝を座布団が大きい面積で受け止めるので、膝を傷めない ③身体がすべらない[畳の上に直接膝があると坐禅中に滑ってきて態勢が壊れるのでそのことに意識が行ってしまいます]
下の四角い布団がなくて、畳に直接座布(丸い方)を置くと、両膝が畳につくので、滑ってしまい、態勢が崩れてしまいます
かと言って、普通の家庭用の四角い座布団でも座を組んだ脚(膝の部分)がはみ出てしまいます
下の座布団は一枚ですますには、両膝が収まるような大きめの座布団が必要です
大きい座布団がない場合は、2枚を横並びに置いて、その真中に丸い坐蒲を置けば、膝がはみ出ません
あるいは、自宅坐禅の場合はヨガマットを2枚折りにするなり、キャンプ用のマットを使うなりすれば、大きめの座布団の代わりになります
専用のものを用意するのなら、中肉中背の男性の場合、座蒲も置けて膝がはみでないためには、横800mm×縦740mm くらいの布団が必要になります こういう長座布団の上に、座蒲(円座)を置いて座禅します 市販のものは、幅が長すぎ、縦がやや短いものが多いですが、オーダーメイドよりは安く入手でき、なんとか使えます 布団ではありませんが、クッション性のある(い草面の中に段々状にプラスチックの)「い草マット」もおすすめです 縦に半分に切って、使うとすべりません 第一い草の良い匂いがおすすめです その他の長座布団)
この記事を書いたずっとあとに、坐禅専用の大きい座布団が頒布されるようになったので、ご紹介しておきます → 坐禅専用の座布団を入手するにはこちらをご覧ください
http://zazen.blog.jp/archives/1070181159.html
あと、
修行に出家も在家もないと思います(出家だから有利、在家だから不利というのはないと思います)
出家して修行僧になって専門僧堂に行っても、坐禅の時間は予想に反して少ないです(道場によっても異なるようです)。
摂心も年間1回のみであったり、摂心中も修行者が「これも修行だ」と言って、お参りの檀家さんにお膳出しをしているところもあります。
僧堂によっては、
年に6回摂心があっても、少しも坐禅にならない(居眠り坐禅ばかりするので)ところもあります。
今の専門僧堂は、臨済宗にしても、曹洞宗にしても、将来住職を務めるための学校的のところが大きいようです。
作務や諸々の役職もあり、法要の仕方や威儀・進退を習得する時間が大部分をしめます。
なぜなら、修行僧を送り出した師僧は、弟子(大体が跡継ぎの息子です)がお寺に帰って来た時に、法事や葬式が一通りできるようになっていてほしいので、僧堂もそのニーズに応える必要があるからです。
僧堂の指導者は、江戸時代まで存在したような仏法の本分を明らめさせようという宗匠(しゅうしょう)ではなくて、曹洞宗という僧侶の組織団体が任命しているからです。
どうしても寺院運営が目的となります。
出家するのは、体験があってからで良いと個人的には思います。
住職資格を獲得するには、専門僧堂に決められた年数在錫(ざいしゃく)しないといけないのですから。
それでも、それまで気ままな生活をしていた人には、共同生活でもまれるのは必要なことではあると思いますが。
人間形成のためには、タイのように、日本人もある年齢になったら、みんな僧堂で修行をするようになったら良いなと個人的には考えています。
身体で動ける人間になるようですね。体格も良くなりますし。
仏道修行のためには、
在家として、
何よりも、正師(しょうし)に参禅することが不可欠だと思います。
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久立珍重 礼拜
昔は線香一本を立ててそれが燃え尽きる時間を坐禅1回の時間としました。
曹洞宗では、坐禅1回を40分としています。線香1本の長さの時間ということで
それを1炷(ちゅう)と名付けています。
従いまして、坐禅3炷の坐禅会というと、40分×3だけ坐禅をするということになります。
ただし、間に経行(きんひん)という歩行禅、抽解という東司(とうす=トイレ)時間を取り入れています。専門僧堂のようなところでは修行者の数も多いので、経行10分、抽解10分としています。
従いまして、坐禅40分⇒経行10分⇒抽解10分 合わせてちょうど1時間になりますので、
◯時20分から坐禅を始めますと、いつも◯+1時に坐禅が終わるので管理上は便利です。
禅堂に時報を鳴らす時計がありますと、坐禅の終了の合図に使えるので管理上大変便利です。
(あくまでも運営側の話です)
ただ、お寺が大きくない、市街地の貸し会場や一般住宅を坐禅会場として使用する場合は、経行を10分もできません(人と人がくっつき過ぎるので)
なので、経行5分、抽解5分にすれば良いと思います。
もう一つ経行5分、抽解5分にするメリットは、特に抽解5分だと東司(とうす=便所)に行く時間しかないので、その間に参禅者が不要な会話をすることもないので、おすすめです。
40分+5分+5分=合計50分になりますが、今はスマホなどでそれが簡単に計測できます。
坐禅アプリなども出ているのでそれを活用すれば良いです。
坐禅アプリの中には、鐘の音を鳴らすのもあるので、一般住宅などで坐禅会をする場合、お寺のような鳴らしものがなくても、それに近い音を出すことが可能です。
自分の修行(坐禅)が独りよがりになっていないか、老師から聞いた話に自分で解釈をいれて別のものに変えて受け取っていないか、そもそも正しく話を聞けているのか、自分の坐禅が本当の坐禅になっているのか、それをチェックしてもらうのが独参です。
ハッキリした人(悟った人)でないと考え方に陥っている人の誤りを指摘することができません。
1人の参禅者が老師に独参に行き、それが終われば次の1人が老師に独参に行くわけですが、これを効率よくやるにはちょっとしたノウハウが必要です。
専門僧堂では、独参は独参場という一室にそこに到着したものから順に正座をして並び、これから独参に行く人が鐘を鳴らしてから老師のところに独参に行き、それを順番に行います。
しかしながら、井上義衍老師系統の場合は、1人に対する独参時間が結構長いので、そのようにしていると列の最後の方に来た人は、ずっとそこで何時間も過ごすことになります。
それでも良いと言えば良いのですが、ベターな方法があります。
それは、自分の独参になったらだれかに独参に行くように呼び出してもらうということです。
主催者がやると主催者は坐禅できなくなるので、それを各自に分担してもらうことで効率よくする方法があります。
独参に行きたくない人は別に強制されません。
受付時に、独参に行くか行かないかを選んでもらい、行く人に独参札を渡します。それには独参番号が書いてあります。それを自分の単の横に置いて坐禅をします。
番号順に独参に行きます。1番の人は独参が終わったら部屋から退出したらすぐに2番の人を呼び出します。もちろんそれが坐禅時間中であってもある程度の大きな声で、
「独参2番の方、どうぞ」
というように呼び出します。
それを繰り返します。
こうすることによって、主催者が独参者を次から次へと呼び出すという負担がなくなります。
まだこれから加筆していきます。
坐禅会がお昼をまたがって行われる場合は、食事のことを考える必要があります。
一番良いのは、昼食と飲み物を各自持参してもらうことです。
食事のゴミやペットボトル・缶も持ち帰ってもらうようにした方が良いです。
講師への謝礼、講師食事代・飲み物代、講師往復の交通費、講師宿泊費、坐禅会の会場費、主催に要する経費(道具、場合によっては坐禅用坐蒲(坐禅用の丸いクッションなど)、主催者・世話役の駐車場代)、講師の帰りの食事代などを参禅者数の予測などから赤字にならないように会費を設定します。
特に会場が講師の居所から遠方の場合は、交通費の割合が大きくなり、それが、坐禅会費に反映されます。
なお、老師が2023年で数え年91歳という高齢ですので同行者が必要です。その方の交通費・宿泊費も必要となります。
エクセルを扱える人は、収入と経費を項目別に入れて収支計算できるようにしておけば、何人の参加者で黒字か赤字かの目処が立ちます。赤字ならば会費を上げざるを得ません。
もし、前日、翌日に近くの別の会場で坐禅会が行われる時は、その主催者と交通費負担の相談をすれば、講師交通費という経費が少なくて済むので、場合によっては、会費を安く設定できます。
あるいは遠距離の場合、全国の老師参禅者から寄付を募ることも考えます。
たとえば北海道で坐禅会を開きたいということで、全国の参禅者に北海道坐禅会開催のための寄付を募ります。純粋な寄付でもいいのですが、クラウドファンディングで言う「購入型」のように「返礼(リターン)」を用意します。たとえば老師に揮毫をお願いし、寄付の方にそれをプレゼントすると寄付が集まりやすくなります。今の時代はネットがあるので全国から寄付を募りやすいです。
最寄り駅と会場間の送迎をする必要があります。主催者が出来ない場合がほとんどだと思うので、あらかじめ送迎をだれかに頼んでおきます。
(老師は2023年現在で数え年91歳のご高齢ですので1人随行されます)
その前に講師の到着時間、出発時間などをメールなどで教えてもらっておく必要があります。
できれば誰かに頼んでおきます。
受付用紙はファイルを作り同じものを最低2枚印刷して用いると便利です