独参と坐禅

独参のない修行は、修行にならないとされています

このページはこのサイトの管理人の一人が今までの経験(正師に会えなかった長い時代の経験も含みます)や見聞を基に、独参に関する個人的なメモとしてまとめたものを転載したものです 従いまして、このページの記述の責任はすべて管理人DKにあります 参考としてご覧ください

 

 

坐禅の仕方

坐禅をするのに、六感を解放して、自分のために六感を使うことを一切捨ててしまえばいいんです。それによって、決定的にけりがつくんです。―井上義衍老師



坐禅の仕方について早く知りたい方は

坐禅について、基本的なことから早く知りたい方は

こちらをどうぞ

その後は、ただちに悟っている人(正師しょうし)に参禅をしてくださいませ。

作法については、こちらに書いています。

 

 

独参の役割と手順と意義

独参とは師家との真剣勝負

独参とは、師家(しけ)と学人(がくにん 修行者・参禅者)とが一対一で問答商量をすることです

師家とは、 仏道修行を終えた指導者・老師です

師家は出家(僧侶)でも在家(ざいけ・僧侶でない人)でも構いません

(釈尊の在世時には、得道の在家がまだ得道していない僧侶を指導したという記録があると言われています)

 

 

学人とは、真剣に仏道を求める人です 僧侶であるか在家であるかは問いません 性別・年齢・職業は問いません 在家の人にも真剣な人が多いです

 

 

 

臨済宗では独参を参禅と言います 臨済宗で言う独参は、総参と対比されます

攝心(7日間の集中坐禅修行期間)の初日と中日(第4日目)と最終日(第7日目)には、摂心に参加している全員(僧侶も居士大姉も)が、独参に行かねばならず、それを総参と呼びます

 

曹洞宗では参禅は独参の意味ではなくて、師家に師事することを言います

もしくは坐禅に行くこと自体を、「参禅しに行く」のように使われています

 

つまり、

曹洞宗では、参禅=坐禅およびその付帯行事に参加すること

臨済宗では、参禅=独参や総参に行くことのみを指します

です

 

 

 

独参の体験談ー独参をしてから、一気に忘我の境地を得る

問い 老師がよく祖師方が悟ったときのお話をなさるとき、石に蹴蹟いて、ハッと気がついたとか、太鼓の音がした途端に大悟したといったことをお聞きすると、そういう状況が訪れないかと期待し、故意に蹴蹟(つまづ)いてみたりしてみましたが、その際が参りません。


井上義衍老師 そんな作り事をしても駄日です。無門禅師の場合は、昼食の時を知らせる太鼓のバーンという一声が、無門の心臓をつかまって揺さぶっただけです。なにも説かれたんでも、どうしたんでもないんです。
独参なさい。  (独参とは、師匠に参禅者が対面で疑間を尋ねる行為です)

(この方は、参禅後五年ほど「分かったような」気持ちで過ごしていたそうですが、独参を勧められ、独参して三回ほど経過した夕刻、友人と話していて忘我。それまでに経験した一端を話してくれました)
参禅することが長くなると、理解できるものですから、「すでにその境界にあるのではないか」と錯覚するようになりました。

 

しかし、心のどこかで、なにかよさそうなことを期待していました。「際」を期待していたのです。

 

「独参しなさい」と老師に諭され、月一回の独参でしたが、自分を整理して疑義をまとめてみると、あいまいな自分が見えてきました。

 

三カ月ほど経過した夕刻、友人と話していて忘我。

 

今思い返しても、話の内容が何であったか思い出せませんが、道具としての口の動きと発している音とが、意識外にあることを自覚しました。
「これが際だ」と思いました。それは、予測していた価値ある世界ではなく、バカらしいほど、当たり前のことが当たり前に分かっただけで、今までなんで肩肘張って生活してきたんだろうと思いました。

 

義衍老師に接見して証明していただいた折、「バカらしいことが分かっただけですね」とお話ししたのを覚えています。

義衍老師も、「そうですよ」とお答えになりました。

 

忘我するまでに五年もかかってしまいましたが、独参するなど自分にもっと親切であったら三年もあれば十分ではなかったかと思っています。

長くやっていても、真剣に向き合っているようで、「休んでいた」時間が長かったと反省しています。

平生の生活では、その時そのときをころがすことができますから、老師がいつもおつしやつている「一如」の生活なのです。こういう状態を「休んでいた」といっているのです。

 

しかし、分かってころがすことができているのではありませんから、よさそうなものを(悟りを)期待し、一旦事が起きると終始がつかなくなる危惧があります。

 

この「休んでいる」状態をくずす最良の方法は、坐禅でした。

坐禅すると、問題になることが噴出しました。

 

そのひとつひとつを師にお尋ねすればいいのですが、大勢の中での質問では、格好をつけたり、遠慮してしまって自分の問題とはなりませんでした。

独参しなければなりません。

 

老師は、質問すると、相手を気遣ってくださるのか、「そうそう…」とお話を始められました。自分の持ち出した内容が肯定されたと勘違いすることがありましたが、最後まで承ると、否定されていることが多かったように思います。

 

質問者は概して、自分を曲げることがないものですから、逆だと指摘されても無神経な人が多いように思います。

 

わたしは、独参時テープをとらせていただいたものですから、誤りに早く気づくことができ
ました。

坐禅中にメモを置いて記録させていただいたこともあります。

せつかく疑義が生じても、時が経つと思い出せないことがあったり、忘れてしまって問題としないことがありました。

                     ー井上義衍『禅話プロローグ』から

 

 

 

独参作法

師家(指導者たる老師)は禅堂とは別の一室にいて、そこで学人を待っています

 

学人は、独参の待合室から、または、坐禅中の禅堂から直接、やって来て、その部屋に入る前に三拜、部屋に入り、老師の前で三拜してから、独参が始まります

 

老師は座布団の上に座り、前には竹篦(しっぺい)あるいは如意(にょい)と言われる棒が置かれています

右には鈴(れい)があります

 

初めに、「◯◯に参じています」と言ってから見解(けんげ)を呈します

あるいは、公案に参じている場合は、公案の本則・評唱などをすべて本文そのまま(漢文読み下し文)に唱え、

そしてから見解を呈します

公案を途中で間違えると、そこで鈴が鳴ります 「出直して来い」と言うことです

 

学人の見解が終わってから、老師がそれに対して応酬をします

 

それに対して言うところがあればそれを提示します

 

礼をつくしたあとは、師家と学人は対等です

師匠と弟子ではありません

師家の眼をしっかり見ます

 

師匠の言うことをご無理ごもっとも と一方的に話を聞く場ではありません

無駄話は不要ですが、尋ねるべきことは尋ねないといけません

 

修行上の質問があれば質問をします

 

鈴が鳴れば、たとえ、まだ言いたいことがあったとしても、老師の前で三拝してすみやかに退出します(総計九拜することになりますが、それぞれ一拜ずつにして総計で三拜に簡略化する場合もあります)

 

 

このように人の前で三拜をすることに、「宗教的」で抵抗があるという参禅者がいます

そのことに対して、ある師家が言いました

「だれがだれに三拜しているのか分かるまで独参してください」

三拜は人格崇拝ではありません

弟子は師の言うことに服従するというのではありません

 

 

ところで、独参は一回だけしか行けないという決まりはありません

 

一日に何回独参に行っても構いません

喚鐘が出ている限りですが

 

 

独参と喚鐘ー曹洞宗・臨済宗

独参のはじまる合図として、喚鐘(かんしょう)という鐘(かね)が長く連打されます(30秒以上)

これを聞いた学人の独参希望者(坐禅中である)は、禅堂から出て、独参の待合(一室または専用スペースが独参の待合専用に設けてある)にやって来て、先着順に並びます 独参に来ない者は、そのまま禅堂で坐禅を続けています

 

先着順に並ぶにあたっては、そこまで走っても良い道場、走ってはいけない道場があります

広い僧堂で、禅堂と独参室とが遠く離れている場合などは、かなりの長距離を走ることになる場合もあります

 

 

独参トップの者は、喚鐘の前にいて、しばらく待っています 老師の室から、チリリリリーンと鈴が鳴れば、すみやかに喚鐘を「カーン。。。カーン」と2回鳴らして、独参に向かいます 老師の振る鈴は、「独参に来たれ」という意味です 「カーン。。。カーン」と喚鐘を学人が2打するのは、「今から独参に行きます」という意味です

意味よりもむしろ

「チリリリリーン」 と来たから、「カーン。。。カーン」です

 

次の人は、喚鐘の前に移動し、そこで座禅を続けます そして、

「チリリリリーン」 と来たら、「カーン。。。カーン」です

(*に続く)

 

 

(最後の人が独参に行っている場合は、その人が終わって老師が鈴を鳴らしても、次の待ち人はいないのですから、喚鐘が鳴りません  そこで、担当者が、喚鐘を5打します  カーン、カーン、カーン、カン、カーン のように大・大・大・小・大 と打つことで、「独参する人はもういません」と老師に知らせます)

 

 (*からの続き)

そして、上記の作法に従って、礼をつくしたあとは、師家(しけ)の目を見て、師家に見解を呈します

この時は何の遠慮も要りませんし、何の気構え、力も要りません 気合を入れること自体が余計な作り事をしているということです

 

問答商量のあと、老師の鈴が鳴れば、「はい、あなたは独参終了」「次のものは独参に来たれ」という意味ですから、師家に礼拜したあと、すみやかに退出します

師家の鈴を聞いた次の者は、この時、喚鐘を2回鳴らしています

 

次の者が師家の室に向かってきているので、途中で出会うことになりますが、特に挨拶は不要です

 

このようにして、学人が次から次へと老師に独参に来ることになります

 

独参を終えた人は、そのまま禅堂に入ります

禅堂は基本「止静」中は、出入りができませんが、

独参に行くときと、独参から帰る時とは、出入りができます

(臨済宗では、独参の時だけ、普段出入り禁止の前門から出入ができます

曹洞宗の場合は、出入りは普段と同じ前門です)

あとから、遅れて独参に出ても構いません もちろんその時は順番待ちの列に最後尾で待つことになります

 

もし、帰ってきた時に、巡香つまり警策を持っている僧侶が動いている場合は、その僧侶が隅に立って止まるまで禅堂の外で待っている必要があります また経行(きんひん)中で皆が歩行禅の最中であれば、低頭をしてから、列に加わって構いません

 

独参の総時間は、一炷の場合もありますし、二炷にまたがる場合もあります

二炷にまたがる場合は、間に経行(きんひん)が入ります

 

場合によっては、一炷がそのまま延長されてしまう場合があります

その時は、脚の痛みが地獄になる場合もあります

「おい、担当! どうなっているんだ 寝ているの? 忘れているの?」と叫びたくなることもあります

ベテランは長時間脚を組み続けられるのですが、大衆(だいしゅ=修行者をまとめていう呼称)が脚を痛めないように、担当者は、40分が来たら、経行にするほうが親切かもしれません

 

 

 

 

総参と喚鐘―禅宗

接心中などは、上に述べたように、全員に独参を義務付けている日があります

全員が独参に行くことを総参といいます

自分勝手に坐禅をしていても無意味なので、少なくとも摂心中に3回は独参に来いということなのです

「特に疑問がないので、坐禅をしていよう」「体験が出るまで独参に行かないでおこう」

そのように決めている人も、総参の時には独参に行かざるを得ません

 

 

総参は、全員が独参に行くので人数も多いので、行きたいものだけが行く独参の時と行き方が多少異なります

 

①喚鐘が違う 喚鐘は時間の関係もあり、2回「カーン、、、、カーン」ではなくて、1回のみ「カーン」と鳴らせば良いです

 

②全員が独参に行くので、禅堂から走り出たり、早足で急ぐものはいません 好きな順番を取ることはできません

また、人数の関係で、2つのグループに区切って、まずは第一グループが禅堂を出て、残り半分の者は自分たちの番が来るまで、そのまま禅堂で坐禅を続ける場合があります

 

以上のように、随意で行く独参と強制の総参とは少し趣きが変わってきます

 

 

 

井上義衍老師門下の独参

独参の作法

独参の作法は、部屋の前で一拜、師家の前で一拜、独参終了して師家の前で一拜のように簡略化している場合が多いです 人数の関係などでもっと簡略にしているところもあります

 

 

独参とは何をするのか

独参には、

自己紹介はまったく不要です 老師があなたのこと(世間的な名前やどこから来たかなど)を知らなくていいのです

人我の見(人見と我見 自分は人間だからどうのこうという見解すべて、自分があることを前提とした見解すべて)を離れているのに気付くのが参禅ですので

 

なので、自己紹介まったくなく、いきなりたずねます。

 

①まだ坐禅の仕方が理として分かっていない場合は、

独参で、老師に坐禅の仕方を質問して明らかにすること

自分のやっている坐禅で良いのか、どこがハッキリとしないのかを確認すること

 

「五感(六感)の機能のままに任せる」「六根を開放する」「何もしない」「思いが出てきてもそれを取り上げない」(思いをなくそうともしない)※と指導されていても、自分が実際にしている坐禅が、どのようなものであるかを師家に伝えてそれが間違っているのかを確認してもらわないといけないのです

仕事でもたとえば部下の人に「何々しておいて」と仕事を頼んでも、違うことを部下の人がしている場合があります そうならないようにチェックを入れますね それと同じことです

 

師家(老師)の意図する所を、自分は違うように解釈をしているかもしれません

 

 

たとえば、次のような問答があります:

Q.

「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。

何が違うのかよく分かりません。

 

 

A.

「自分を眺める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。

自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。

 

そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。

 

本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。

だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。

以上問答の例

 

※のような話を聴いていても、随息観(ずいそくかん)や数息観(すそくかん)をしているような人さえいます

如何に人の話を聴いていないかです  だから確認が必要なのです

 

 

教えられている正法の坐禅は、「五感に感じること」ではありませんし、もちろん、マインドフルネスや「自分の心身を観察すること」「観照者そのものになること」などではありません

え?と思った人は、法話を聞いてみてください

 

 

 

②坐禅の仕方が理としてきっちり理解できている場合は、

そのように坐禅してみて、問題となっていることを質問する

自分の今の様子を呈する

過去の体験を持ち出すのではなくて、今の自分の様子を提示する

 

ということになります

「井上義衍老師は本の中でこのように言っていますが、それはどういう意味ですか?」というような質問ではなくて、「自分はこのように工夫していますが、◯◯◯ですか?」という質問が独参です

 

 

繰り返しになりますが、

独参が、自分の考え方を述べる場所でもなく、

人生相談をするところではないのは言うまでもありませんが、

質問のある場合も、

前置き、自己紹介、事の経緯などは一切不要です

自分の場合も、名前や職業を老師が尋ねられたのはずっとあとのことでした

あなたの名前や職業や既婚か未婚かそういうことは、自己の追求と何の関係もありませんから、師家はそのようなことには関心がありません

 

なので、いきなり本題に入って下さい

修行をしている上での疑問を要点を絞って的確に述べます

一人5分で終わるように、質問を1つに絞ります

 

 

独参のない坐禅はひとりよがりとなり、

「体験をするまでは独参に行かないでおこう」

「特に何も問題はない」などと考えて、

独参に行かない

疑問を自分で処理する

のは、修行が進まないとされています

 

 

「特に問題がないというならば、

独参に来て、『何も問題がありません』と言うべきです」

と井上哲玄老師は言われています

大変重要な言葉です

 

坐禅と提唱と独参または坐禅と参師聞法は仏道修行をするにあたって、いずれも欠くことのできないものです

 

喚鐘の鳴る独参でなくても、

普通に老師に直接質問をすることも独参です

 

 

独参の体験談

井上義衍老師門下の参禅者の独参体験

門下の参禅者の体験談がその著書に掲載されていましたので上に紹介しました